読む礼拝メッセージ

2019年8月18日主日礼拝   

ヘブライ人への手紙8章1−13節

「罪は赦される」

 先週は、中会中高生キャンプがFMCで行われました。神様が守ってくださって感謝でした。テーマは、「つながる」というもので、ヨハネによる福音書15章5節の「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」そのときに、メッセージをしましたが、改めて、御言葉の素晴らしい恵みを感じました。ぶどうは、育てたことがないのですが、ぶどう棚があるお家を見ましたときに、本当に見事だと思いました。そして、一つのことを思いました。肝心のぶどうの木は見えないのですが、その枝のほうが見事に、実の方が美しく見えるのです。ぶどう木は一本、太く、確実に土に根を張り、絶対に倒れないように、力強く立っているのです。その姿は目立たなくても、その枝が見事に輝くにように、実が美しくなるように、一生懸命支えているのです。神様の愛も本当にそうだなと思いました。神様は、私たちの人生になくてはならない存在です。そして、豊かに、力強く支えてくださっています。そして、その存在は、わたしたちを生かそうと、輝くようにしていてくださるのです。主はぶどう木、それは、多くのものをすでに神様が背負っていてくださることを意味しています。わたしたちは、人生を一から十まで動かす必要はありません。すべての問題を一人で乗り越えなくてはいけないということでもありません。神様は、すでに多くのものを成し遂げ、守っていてくださるお方なのです。わたしたちは、つながっていれば、あとは、自然体で、委ねて、気持ちを楽にして、人生に賛美を、生活に祈りを、その一つひとつを大切に歩むときに、神様の最善の手の中で、守られるのです。

 今日の聖書箇所は、この神さまの恵みの人生を示しています。ご一緒に恵みを受けたいと思います。

ヘブライ人への手紙8章1節からをお読みいたします。

『今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。すべて大祭司は、供え物といけにえとを献げるために、任命されています。それで、この方も、何か献げる物を持っておられなければなりません。もし、地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます。更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者となられたからです。』

 ここでは、常に二つことが対比されています。二つの選択肢があるのです。わたしたちは、一つのことを見ることが得意かもしれません。自分という経験の中から、自分の知恵の範囲の中で、あらゆるものを見ているのです。その視点は、神様の世界観から見れば狭く、単焦点的で、自分という枠組みの中でしか物事を見ることができないのです。それゆえ、悩んだり、恐れたりしてしまうことがあるのです。神様は、聖書を通して、わたしたちに新しい出来事、神様にある世界観、人間の狭い価値観を超えて、もっと偉大な神さまの手の中にある豊かな人生の価値を示してくださっています。ここで、語られていることは、古い契約と新しい契約です。8章1節のところで「今、述べていることの要点は・・」とまとめられています。感情や感覚に訴えることよりも、一つひとつの階段を上るかのように、人々の思いに寄り添うかのようにして、古い契約から新しい契約に、律法から福音に、人々の思いを導こうとしているのです。それは愛です。わたしは、信仰の真実を見ることができない時があります。古い自分の考えに固執してしまったり、現実ばかりを見て、不平、不満を抱いてしまったりするのです。聖書は、そのような私の人生の立ち位置を変えてくれます。そして、今がダメとか、だから不信仰とは、神様は決して言わないのです。道は続いています。今は、喜ぶことができなくても、今は感謝することができなくても、神様にある人生は、道が続いていて、真実へと、希望へと、神様の栄光とへとわたしたちを導かれるのです。このヘブライ人への手紙で言うならば、地上の祭司から、天の大祭司イエスさまを見つめることでした。なぜ、人々の生活の中には、恐れがあったのでしょうか。なぜ、信仰を持ちながらも、後ろ向きになってしまうことがあったでしょうか。それは、この世、地上のことを見ていることにその根本的な原因があります。ユダヤ人にとっては、シナイ契約、モーセがシナイ山の上で、律法を与えられたことは、本当に大きな出来事でした。彼らは、それによって偉大な民族へと成長しました。律法を教えられ、祭司制度を通して、人としての生きる希望を見出し、信仰の道、何よりも神様を第一として生きる道を聖書を通して教えられたのです。それは、民族の歴史にとっても価値があり、誇りでもあり、人生そのものであったでしょう。しかし、そこから、天を見つめるように招かれているのです。その地上の価値よりも、はるかに素晴らしいものがあると語られているのです。信じがたいことであったと思いますし、シナイ契約という中に生きてきた人生で、新しい契約を理解することは容易ではありません。ここに大切な岐路があります。私たちは、福音の真実に導かれる時に、いつでも、この分岐点に立たされるのだと思います。それをどのように正しく、神様の道を理解することができるのでしょうか。今日の聖書箇所にその神様の真実を見つめる、視点が語られています。それは、8章5節の御言葉です。「この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。」旧約聖書から新約聖書への移行、そして、神様の新しい計画がここで示されています。祭司の制度も、モーセの律法も幕屋も、イスラエルが神の民とされたことも、それ自体が目的ではありませんでした。もっと壮大な神様の計画がそこにはあったのです。それは、天の写しを地上にある時期示されたということです。天のあり方、神様の栄光の富、姿、神の国の豊かさの写しがこの地に示されていたということです。祭司制度が間違っていたということではありません。旧約聖書の神様は義なる方で新約聖書になって恵みの神様になったということでもありません。旧約聖書は、神の国の写しをイスラエルの民に示され、そのとおりに生き、導かれました。イエスさまが登場した時に、本物が来たのです。コピーではありません。神の国そのものが到来したのです。そして、十字架で完全な贖いをしてくださいました。聖霊を注いで、神の国そのものを現してくださいました。ものすごく豊かな時代に生きているのです。写しではなくて、神の国の現れがまさにイエスさまなのです。それでも、私たちの生きる世界には、憂があります。本物が来たからと言ってすべてが良い社会、平和な世の中になったわけではありません。いぜんとして、憂があります。悲しみが満ちています。わたしたちの周りにも痛みがあります。どうすることもできないような恐れが取り囲んでいます。しかし、そこに一筋の光であるイエスさまが与えられているのです。ここに希望があると語られているのです。わたしたちは、この人生の中で経験することは、決して神の国のようなことではないのですが、その闇の真ん中に、光があるとどうでしょうか。わたしたちに希望が与えられます。その光を信じて生きることができます。なぜなら、それは本物の光だからです。私たちには今も神の国を経験するのです。

8章7節からをお読みいたします。

『もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかったでしょう。事実、神はイスラエルの人々を非難して次のように言われています。「見よ、わたしがイスラエルの家、またユダの家と、新しい契約を結ぶ時が来る」と、主は言われる。「それは、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らはわたしの契約に忠実でなかったので、わたしも彼らを顧みなかった」と、主は言われる。「それらの日の後、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである」と、主は言われる。「すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。彼らはそれぞれ自分の同胞に、それぞれ自分の兄弟に、「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に到るまで彼らはすべて、わたしを知るようになり、わたしは、彼らの不義を許し、もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。」神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びものは、間もなく消え失せます。』

ここには、エレミヤ書31章31節からの箇所が引用されています。預言者エレミヤは、この新しい契約について、神の国の新しい時代について預言をしていました。かつてイスラエルの民は、エジプトから救い出されて、そして神の民としての律法が文字で与えられました。神の国の人生の生き方、そのすべてがそこには記されていました。しかし、それは文字であったので、その文字を見て、学び、実行することが求められました。まだそれは完成ではありませんでした。イスラエルの民は、その律法の型に従って生きるようにと言われたのです。しかし、彼らはそのとおりに歩むことができませんでした。もちろん、何か御心にかなう歩みをした時もあったと思いますが、多くの場合は、彼らはその型通りに、その神の民の道を外れずに生きることは難しかったのです。これが旧約聖書の時代です。ですから、旧約聖書を読む時に、神様のイメージは厳しいお方のように感じるかもしれません。それは、道が示されているにも関わらず、右にそれ、左にそれ、危うい道に足を進めようとしていたことに対しての、その道に行ってはいけない、ということの明確なメッセージだったのです。しかし、この新しい契約は違います。神様が心変わりしたということではありません。律法や型は、人間の弱さ、罪深さ、神様の内在の力が必要があることを求めさせるためであったのです。そして、新しい時代、新しい契約は、型がただ示されて、その道に歩みなさいということではありません。新約聖書では、新しい契約は「インマヌエル」なのです。主が共にいる、というものです。それは、外に道があるということではなくて、神様が内在されるということです。より本質になるということです。エレミヤ書31章33節でも「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」あります。人生を神様とともに歩むために、より一体感をもって生きるようになるのです。例えがあまり良いものではないと思いますが、自転車は、私たちが一生懸命こがなくてはいけません。足を動かします。動力は、私たち自身です。この道を進もうと言われたら、ペタルを自らがこいで進ます。しかし、やはり、でこぼこ道などでは、不安定でふらついてしまいます。しかし、もし車に移動手段が変わったらどうでしょうか。動力は、自分ではありません。エンジンがあります。それは、楽になったとか、自分では何もしないでよくなった、ということではありません。この新しい契約の生き方は、キリストが内在されて、わたしたちの人生の動力が変わったということです。このヘブライ人への手紙でもそのことが説明されています。具体的には、3つの大きな変化がありました。一つ目は、罪の完全な赦しです。なぜ、赦されることが必要なのでしょうか。赦しが与えられていない状態というのは、重たい荷物を自分で背負って人生を生きていることと同じです。赦しを経験する時に、より自分らしい人生を生きることができるようになるのです。二番目は、内面の変化についてです。自分で心を変えることは難しいです。他の人の心を変えることもできません。御言葉がわたしたちの内側で変革をもたらすのです。三つ目は、神との関係です。もはや、主人や奴隷というような他人のような距離感をもつ関係ではなくなりました。親と子の、血のつながりのように、神がそばいにいて、神様は、わたしの民と呼んでくださり、わたしたちもわたしの神と呼ぶ、真実で豊かな人生がはじまるのです。