読む礼拝メッセージ

2019年11月3日主日礼拝   

ヘブライ人への手紙12章1−11節
「疲れてしまった時は」


 11月の第1週の日曜日、今週も神様の恵みの中を歩いていきたいと思います。香港から帰ってきて翌日でしたが、天皇の即位の日がありました。香港では教会をたくさんみてきました。多くのクリスチャンの方々との交流がありました。そして、日本では「天皇バンザーイ」と呼びかけているその光景に自分自身の違和感を思いました。しかし、その即位の儀式の中で、沖縄の高校一年生が招待されました。昨年6月に行われた沖縄全戦没者追悼式で平和の詩を読み上げた高校生です。その詩は、平和の詩と呼ばれていますが、正式には、「生きる」というタイトルであったようです。その詩の全文を読みましたが、本当に大切なことが語られている内容でした。一部抜粋いたします。
「私が生きている限り、こんなにもたくさんの命を犠牲にした戦争を、絶対許さないこと。もう二度と過去を未来にしないこと。すべての人間が、国境を超え、人種を超え、宗教を超え、あらゆる利害を超えて、平和である世界を目指すこと。生きること、命を大切にできることを、誰からも侵されない世界を造ること。平和を創造する努力を、厭わないことを。・・わたしは、今を生きている。みんなと一緒に。そして、これからも生きていく。一日一日を大切に。平和を想って。平和を祈って。なぜなら、未来は、この瞬間の延長線上にあるからだ。つまり、未来は、今なんだ。」
 素直に平和を求める思いに心打たれるような内容です。「未来は、今」という、切実な訴えです。今、変わらなくては、今、平和を一人ひとりが求めなければ、本当の平和は訪れないということです。先の話でも、これからのことを議論するということでもありません。わたしも「今」なのだと思いました。信仰も「今」なのだと感じました。難しいこともあります。まだ、祈りが聞かれていない現実もあります。でも、今、神様の恵みにつながって、生きることを決断すること、祈ること、求めること、今日という日に救いに生きることをしていきたいと願っています。


 神様は、今日という日に必要なみ言葉を一人ひとりに語ってくださると思います。ヘブライ人への手紙12章1節からをお読みいたします。
『こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。このイエスは、ご自身の前にある喜びを捨て、恥をいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです。』
 ヘブライ人への手紙11章は、信仰の賛歌というべき、旧約聖書の登場する信仰の勇者たちが、神様を信じることの中で、苦難を乗り越え、勝利し、その歩みを全うしたことが語られました。気持ちが非常に高まって、聖霊の喜びに満たされているようです。この信仰列伝を私たちもメッセージとして聞き、どのように感じたのでしょうか。ある人は、とても強められたと思います。それでも、逆にその強さといいましょうか、信仰の高まりを語られても、自分はどうなのだろうかと思ってしまうこともあるかもしれません。もっと言うならば、では、この世の苦難、試練、苦しみのある人生をどのように理解できるだろうかと、信仰だけですべて解決できるのだろうかと、疑問を持つ人もいるかもしれません。そこに光をあてているのが今日の12章の箇所です。


 ここでは、クリスチャン生活が陸上競技にたとえられています。わたしは少し嬉しくなります。5、6年前からマラソンを始めまして、毎朝10キロ以上走っています。フルマラソンの大会にも参加しますと、気持ちが高まります。マラソンの大会は、スタートとゴールの地点は陸上競技場の場合が多いです。観客席があって、そしてトラックを走ります。何とも言えない興奮を覚えます。なぜ、ヘブライ人への手紙の著者は、信仰の歩みを陸上競技に例えたのでしょうか。わたしのように趣味をもっていたからでしょうか。そうではないかと思います。陸上競技と信仰と生活の共通点を見出していたのです。この競技は、栄冠を得るために、苦しみを通っていきます。わたしは、フルマラソンで42.195キロを走る時に、またはそれに向けてトレーニングする時、本当に苦しいのです。なぜ、自ら好んでこんなに苦しいことをしているのだろうかと自問する時があります。もう走るのをやめたい、そんなことをよく思います。でもなぜか走るのです。そこに目標があって、仲間がいて、そして苦しい道の先に、言葉では表現することができないほどの充実感を得ることがあるからです。苦しみを通らなければ分からない大きな喜びの出来事があるのです。


 私たちの人生は、決して一人ではありません。おびただしい証人の群れに取り囲まれているのです。アブラハムが、ダビデが、モーセが、獅子の穴に閉じ込められたダニエルが、聖書から語りかけて、私たちを励ますのです。ある時、旧約聖書に出てくるエリヤは燃え尽きました。もう命をとってくださいと言いました。ヨブは苦難の前で生きていることを自ら呪いました。それぞれが、この世で痛み、苦しみ、そして嘆いているのです。それが現実です。しかし、そこから聞こえてくる信仰の言葉があるのです。真理の御霊が動き出すという人生です。ヨハネによる福音書14章16節に「この方は真理の霊である。・・この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。・・」この真理の御霊が自分の内に働くということを経験させられるのです。おびただしい証人の群は、弱さの中にあって、ものすごく豊かな真理の御霊が自分の内に動くことを知っているのです。その御霊が働くことを妨げることの中に置かれます。すべての重荷や絡みつく罪です。わたしは、身軽になって、ただひたすら目標をも目指してイエスさまを見つめたいのです。信仰の創始者、完成者であるお方をいつも見つめたいのです。しかし、喜びが失われ、目標を見出せずに、歩いてしまうことの多いものです。


 イエスさまは、信仰の創始者であり、完成者です。ここに大きな信仰の歩みを導く秘訣があるように思います。たとえば、マラソンの競技で言えば、スタートとゴールがあります。そして、コースがあります。地図などがあれば全体像がみえるわけです。もし、走るのは、本当にきついのですが、スタートもゴール地点もわからず、果てしなく走らなければいけないと思ったら、本当に辛いです。苦しいし、どこに向かっていけばいいのかわからず、疲れ果ててしまうでしょう。そのようなマラソンは走りたくありません。聖書は、人生を明確に定義してくれます。私たち偶然、たまたま、この世に存在しているのではありません。天地創造の前に、神さまは私たちを愛して、聖なる者、汚れのない者、神の子にしようと、選ばれているのです。そこがスタート地点です。ここから、わたしたちの人生は出発しています。ゴールはどこでしょうか。イエスさまの生涯からみるならば、十字架を耐え忍び、神の玉座です。忍耐と栄光です。スタート地点とゴールが見えて来ました。あとはどのように走るかです。
4節からをおよみいたします。
「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。また、子供たちに対するようにあなたがたに話されている次の 勧告を忘れています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬しています。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょか。」


 ここには、鍛錬のことが書かれています。この鍛錬には意味が深く込められています。鍛錬は、ただ起きている現実ということではなくて、なぜ、起きたのか、だれかが、罪を犯した結果なのだろうかと、苦しみがあるのは、わたしが人生生きていて価値がないからとか、自分を責めたり、他人を責めたり、運命を呪ったりすることがあるのです。それは、人間の知恵です。わたしたちは、聖書から教えられています。先程のスタートとゴールです。聖書の道筋の中に自分たちに与えられている人生があることを教えられています。これに尽きるのです。自分の知恵でもなく、この世の運命に照らし合わせて自分の人生を考えるということでもなく、人生のマラソンコースを明確に示されているのですから、そこを見つめます。それは、時間がかかってもいいのです。ゆっくりと苦しみ、痛み、本当に疲れ果ててしまって、深く、そして豊かに御言葉の体験に導かれるように祈り求めていきます。


 スタート地点をいつも考えるのです。道に迷ったら、このスタート地点にまた戻ればいいのです。そこは神さまの愛です。神さまとの関係です。ここには、 非常に厳しい言葉が記されていると思います。鍛錬として忍耐しなさい、とあります。そんなにたやすく聞ける言葉ではありません。しかし、ここには、神さまの子どもとしての人生があるのです。それは、関係性が一番大切です。父なる神さまとわたしたちです。ゆっくりと静まって、苦しみの中においても、そのお方の愛を経験することなしに、人生のすべてを受け止めることはできないのです。そして、ここでいう愛は、この世にある愛ではありません。深い愛です。神さまの愛は、わたしたちの人生に注がれているのです。その愛は、苦しみをただ与えて忍耐せよ、という愛ではありません。わたしたちの罪を単に 指摘して、悔い改めさせる冷たいものではありません。「わたしたちの益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。」(10節)聖書には、実は、苦しみの乗り越え方とか、ご利益のように祈れば良いことが起きるとか、その行によって人生には報いがくるとか、そのようなことが記されていないのです。なぜ、試練があるのでしょうか。だれかのせいでこうなっているのでしょうか。それらの回答を聖書から見いだすことはできないのです。何が 聖書に書かれているのでしょうか。それは、試練の中にあって、神さまと深くつながる 方法です。試練はそのままです。なかなか思うように改善しない時があります。しかし、信仰は深められるのです。
11節からをおよみいたします。
「およそ鍛錬というのは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい。また、足の不自由な人が踏み外すことなく、むしろ癒されるように、自分の足でまっすぐな道を歩きなさい。」
 ゴールがあります。やがてたどり着きます。そして、経験します。義と平和と愛と喜びです。神の国です。それは、地上での命の終わりのことだけを言い表しているのではありません。問題、課題、悩み、不安、鍛錬と思える出来事の中に、今生きています。気力を失い疲れ果ててしまうことがあるでしょう。喜ばしいことの中だけに生きられない人生があります。しかし、その人生は、神さまの愛によって本質的ななります。深められ、内面は変えられ、信仰の出来事を味わい、経験し、神の国の味わい深さを実感するのです。


 労苦、痛み、その道をどうしても通らされるのです。決まっているようです。避けたいことも、本来であれば苦難など経験したくありません。火を通らされ、川の流れに押し流されそうになり、自分の命の危険すら感じるような断崖絶壁の場所にまで追い込まれます。わたしたちは知ります。炎もあなたに燃えつかず、大河の中を通っても、押し流されないことを、神さまは、わたしたちを愛する子どもとして、白髪になるまで背負っていこうと約束してくださっています。死の影の谷を歩く時も、わたしはあなたと共にいると約束してくださっています。子どもは、多くのことができません。父の愛に留まる時に、生きる道をはじめて見いだすことができるのです。父の愛の中で癒される、憩い、励まされ、強められるのです。
 この愛の中で、一週間、共に走っていきましょう。