読む礼拝メッセージ

2019年7月14日主日礼拝    

ヘブライ人への手紙5章11ー14節

「成長して実を結ぶ」


 今日の説教タイトルは、「成長して実を結ぶ」というものです。信仰には、命がありますので、命があるところには、成長も同時にあらわれます。もし、キリストにある信仰が観念的なことだけ、文化や習慣という枠組みだけで理解するならば、信仰は義務や人生の中でもっともつまらない思想になってしまいます。しかし、喜びしいことは、信仰は神様の恵みによって豊かな命が与えられていますから、わたしたちの信仰は豊かに育まれていきます。今は苦しみや人生の課題に囲まれることがあっても、しだいに、受け止め方が変わってきます。祈りも変わってきます。人との関わりも変化していきます。人生も見方、何に価値を置いて起きていくかにも変化が生じます。それは、とても素晴らしい神様の御業です。自分で成長しなくてはいけないとがんばらなくていいのです。聖書の御言葉にくっついて、この命の言葉に触れ、美味しいお料理を食べるかのようにして、心に、魂に、御言葉を浸透させますと、豊かな命が喜びが湧き上がってくるのです。
 6月に岡村直樹先生が来てくださいました。日曜日の午後の時間に、町田南教会というところで講演会がありました。そのテーマが信仰の成長というものでした。そのことを空手にたとえて説明されていました。空手は、それぞれのレベルを帯の色で表現しています。初心者は白帯、中級者は茶帯、上級者は黒帯です。それぞれの段階で、その人が考えることが違います。白帯の人は、「どうしたら強くなれるの」と思います。茶色の帯の人は「ゴール(目標)はどこ?」と思っています。黒帯の人は、「強い人」を意識します。私たちは信仰の歩みの中で何を思っているでしょうか。白帯の人はまだ自分がどうなるか、信仰の豊かさをまだ知らないことがあると思います。茶帯になると少しずつ目標意識が出て来ます。黒帯の人はその喜びを見いだしていきます。わたしたちは、信仰の歩みの中で、御言葉の喜びを見いだしたいと思うのです。経験し、味わいたいと思います。神様が生きておられることを豊かに体験したいとのです。聖書をお読みいたします。
ヘブライ人への手紙5章11節からをお読みいたします。
『このことについては、話すことがたくさんあるのですが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、容易に説明できません。実際、あなたがたは今ではもう教師となっているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわねばならず、また、固い食物の代わりに、乳を必要とする始末だからです。』
 このヘブライ人への手紙を書いた著者は、とても大切なことを伝えようとしています。しかし、どうもそれを伝えきることができないその苦悩というものが今日の聖書箇所にはあります。豊かな真実、揺るぎない神様の信仰、とてつもないような神様の愛、それを知ってほしいと願うのですが、それを受け取る人たちの信仰が、受け止めきれないような状態になっているのです。ここにはどのような差があるのでしょうか。信仰には段階があるのでしょうか。良い豊かなものをもっている人、そうではない小さな弱い信仰というように分けられてしまうのでしょうか。実は、そうではありません。信仰には、運命論的な豊かな信仰と、そうではない信仰と別れるのではありません。ここには、一つの秘訣があります。それは、今日の前の箇所、5章9節「そして、完全な者となられたので、ご自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり」と記されています。キリストが永遠の救いの源であるということです。源というのは、源泉、湧き水、尽きることのない泉の源、そのようなことを表しています。信仰というのは、この救いの源となったお方から、愛を汲み、命を汲み、神様のご計画の中にある真実を汲み続けることを意味しています。そうすると、わたしたちの信仰は育つのです。良いものが心に与え続けられるのです。この救いの源の源泉であるイエスさまのもとから、いただくもの、与えられるものなのです。
 先日、中会のワークキャンプで富士峰山に行きました。その周りには、湧き水を汲むことができる場所がたくさんありました。空のボトルをもっていけば、ただその水を汲むことができます。このような場所が近くにある環境というのはいいなと思いました。美味しい水を飲みたいと思えば、すぐにそこに行けばいいのですから。その場所を知っていること、そこに行けば、空のボトルだけでいいのですから、何の負担もありません。この命の源泉のような信仰の祝福を汲み続けること、その場所に生き続けること、自分を生かし、自分を癒し、何によって立っているかをいつも私たちは求め続けることが大切になるのです。ここから離れるのではありません、この求めを失う時に、わたしたちは、飢え渇いたままであってしまうのです。
 このヘブライ人への手紙が書かれた教会にいる人たちは、洗礼を受けたばかりの人たちではありませんでした。聖書のことは知っていました。神様の知識もありました。試練や迫害も乗り越えているようなそのような信仰生活だったのです。しかし、今や、その信仰が後退しているような状況、信仰の喜びが停滞しているような状況、調子が悪いといいましょうか、救いの喜びに満たされていうよりも、現実の苦しみの中で、この先どう生きていけば良いのだろうかと思い悩んでいるのです。本当は教師になっているはずなのに、聖書の教えを人々に語り、分かち合い、そのように生きているはずなのに、再びだれかに神の言葉の初歩を教えてもらわなくてはいけない状況があるというのです。なぜ、そうなってしまうのでしょうか。信仰は、生きています。わたしたちが神様との命溢れる関係を育てて行く必要があるのです。この世には、現実的な力が地よく働いています。大きな波が押し寄せるように、あっという間に信仰の喜びも、救いの喜びも、失われるような現実を経験することがあるのです。もちろん、信仰を育ててくださるのは、神様です。わたしたちの頑張りとか、努力ではありません。聖書の中では、この信仰は、からし種とたとえられているところがあります。種は、小さなものですが、そこに命があります。この種が育つには、自分でその種を開かせて、無理やり根を張らせ、芽を出させることはできません。からし種にはすでに命があります。祝福があります。わたしたちの人生は、それをまず本当に良いこととして、喜ばしいこととして、この成長できる命の種が神様によって与えられているということです。誰もの心のうちにも、誰の人生のうちにも、神様の祝福の命があるのです。それを知ることができるのが教会なのです。だれも否定的にならないでください。自分の人生なんか大したことがないと思わないでください。ものすごい神様にある可能性がある人生なのです。神様が祝福してくださる命の信仰の種があるのです。わたしたちの使命は、この信仰の命を育てて、成長することなのです。どのような成長した姿を想像するでしょうか。どうしたら成長させることができるのでしょうか。祈りが必要です。知恵が必要です。わたしたちは、無理やりに成長しなくてはいけないということではなくて、自然、より豊かに、そして創造的、神様の命の祝福にあずかる良きものとして、その成長を受け止めたいと思うのです。
 ここでは、人間の成長と、信仰の成長ということが対比されて説明されています。幼子は、乳を必要としています。しかし、ずっと、乳を必要とするわけではありません。健全に体が成長していくならば、乳では物足りなくなり、歯ごたえのあるもの、味がついているもの、固形物などをとるようになります。そして、だんだんといろいろな栄養素を必要とする体になります。栄養をとると体は強くなります。免疫機能も強化されて、あらゆる状況、環境の中でも、生き抜く力となります。このことを、信仰の成長にあてはめるとどのように理解することができるのでしょうか。
 乳が固い食物になっていきます。それを受け入れることができることが必要になってきます。乳は、ただ与えられるもので、飲みやすく、栄養になりやすく、ある意味でわかりやすいものであると思います。そのような時期もあります。信仰の歩みの中で、わたしたちは、ただ神様の愛を受けるような時期、ただ神様の恵みに抱かれているような時、何の不足もなく、何の困難もなく、何の負担もなく、信仰生活を歩める時があります。今も、その時々に、神様はその祝福を与えてくださるのです。しかし、人生はそれだけではありません。信仰の歩みも複雑になったり、信仰生活もいろいろな変化が生じる時があります。わたしたちにとって、試練や困難な時です。受け入れがたい現実、試練と思える出来事、悲しみ、痛みが生じること、わたしたちにとっては、固い食物です。しかし、それは、神様がいじわるしているのでも、わたしたちを裁こうとしているのでも、試練を与えて喜んでいるわけではありません。この固い食物は慣れていないことで、今まで経験してきたことではないこと、乗り越えられるか不安になることかもしれません。そのようなことがわたしたちの人生に起きることがあるのです。実際、ヘブライ人への手紙を読んでいる教会の人たちは、今まで経験したことのない試練の中におかれていたのです。間違った教えが教会の交わりの中に入り込み、その生活の中には、信仰の喜びを奪う迫害がありました。八方塞がりのような状況があり、命の祝福に満ちた人生を見失ってしまうことがあるのです。ここからが、成長段階です。でも、心地よい成長過程ではないのです。食べ物であったら楽ですよね。美味しいもの、固形物でも大好きなものがありますから、好んで食べることができると思います。信仰の成長の固形物は、受け入れがたい現実がともなっているのです。それでもです。負荷があるものがやってくるのです。これは、神様が絶大な愛をもって、私たちをもっと豊かに、喜びを感謝を与えてくださる人生とさせてくださるのです。どのようにして、この固形物に向き合えばいいのでしょうか。
13節と14節をお読みいたします。
『乳を飲んでいる者はだれでも、幼子ですから、義の言葉を理解できません。固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。』
 新しい共同訳聖書は、「義の言葉を味わったことがありません」とあります。義の言葉というのは、御言葉です。聖書の言葉を味わうのです。固い食物とは、状況的には試練や難しい問題に取り囲まれていても、それを受け止めてしっかりとしなさい、ということではありません。それは、心に深く受け止めないでいいのです。それを自分の力で乗り越えるということではありません。御言葉を味わうことを知っているということなのです。むしろ、試練の中でこそ、御言葉によって生きるということはどのようなことなのかを深く、味わい、その御言葉に教えられて、慰められて、強くされて生きる道があるのです。
そして、聖書協会訳の共同訳聖書を見るとその続きがあります。14節「固い食物は、習慣によって善悪を見分ける感覚を鍛えられた、大人のためのものです。
 たとえば、わたしたちの日常に試練が訪れます。それは、まず、神様がわたしたちを愛して、信仰の深い喜び、御言葉の味わいを深めていくことのために、期待されていることです。そして、その試練は、必ず、わたしたちの信仰の成長につながっていきます。わたしたちは、いつも喜び、絶えず感謝して、どんな時にも祈るその信仰者とされていくのです。
 習慣というのはどのような意味があるでしょうか。わたしは、自分の生活パターンというか、朝起きてから、一日をはじめる習慣があります。それは、雨が降っても、忙しい時でも、あまり変えたくないものです。でも、その習慣をもっていますと、いろいろな感覚が研ぎ澄まされていくといいましょうか、このようば場合は、こうしようとか、その感覚が鍛えられていきます。強くされていきます。
 それは単なる感覚のようで感覚ではありません。そこに信仰を働かせる訓練をすることです。それは大げさなことではありません。何か特殊なことでもありません。私たちの人生は、すでに神様の大きな御手の中にあります。命の祝福に満ちた人生、キリストの救いの源泉からいくらでも、必要な知恵、力、慰めを汲み取ることのできる場所を見出しているのです。いつでも、上を共に見上げながら、この問題、あの出来事、自分の力では乗り越えることのできないこと、御言葉にすがり、その味わい深さを経験し、歩み続けるのです。その時、自分自身の姿がかつての姿から、日々、成長させられて、体は衰えることがあっても、内なる人は日々成長し続けて、愛の実を結ぶわたしたちとされていくのです。
 今週も神様の祝福を味わい、歩いていきたいと思います。