読む礼拝メッセージ

「天使よりもすごい」

ヘブライ人への手紙1章5−14節

2019年4月14日主日礼拝

来週は、いよいよイースター礼拝になります。今日は、棕櫚の聖日です。イエスさまが十字架にかかるために、エルサレムに入城されました。あしたから、金曜日まで、毎日祈りの時をもちたいと思います。イエスさまがエルサレムにロバに乗って行かれた時に、人々は大歓迎しました。メシアとしての期待、ローマ帝国の支配からの解放、様々な思いをもってイエスさまのことを見ていました。自分に対して、神様は何をしてくださるのか、どのように社会を変革してくれるだろうか、そのような求める期待に対して、イエスさまが何をしてくださるかということを求めていました。しかし、その期待は、人々が願うようなにはならなかったのです。これは、本当に大切な問題です。わたしたちが、信仰ということをどう考えるかということに関係しています。もっと言えば、わたしたちは、なぜ教会に来て祈るのでしょうか。もっと、自分自身の生活が良くなるためでしょうか。わたしの願いが叶えられるためでしょうか。もっと、豊かさや、よりよいものを欲しいと願っているからでしょうか。あらゆる期待をもって、信仰生活をしていることがあります。でも、時には、この聖書の時代の人たちと同じように、なぜ、イエスさまは十字架についてしまったのか、最初は期待がありましたが、その期待が裏切られるような現実を目のあたりにしなければならないのか、しだいに、教会生活にも疲れ、信仰生活にも喜びを失い、期待が裏切られてしまうようなことを経験するのです。わたしたちは、期待よりも、神様を賛美する、もうたくさんの恵みが与えられていますから、毎日、感謝する、実はそのときに、わたしたちの願いのすべてが叶えられるようなことを経験することがあるのです。もっと欲しいと期待ばかりであると、心は満たされないのですが、感謝して生きる時に、信仰の喜びをいただいて歩むことができるのです。今日も聖書から、そのことの意味を見ていきたいと思います。

ヘブライ人への手紙1章5節からをお読みいたします。

『いったい神は、かつて天使のだれに、「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」と言われ、更にまた、「わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる」と言われたでしょうか。更にまた、神はその長子をこの世界に送るとき、「神の天使たちは皆、彼を礼拝せよ」と言われました。また、天使たちに関しては、「神は、その天使たちを風とし、御自分に仕える者たちを燃える炎とする」と言われ、一方、御子に向かっては、こう言われました。「神よ、あなたの玉座は永遠に続き、また、公正の笏が御国の笏である。あなたは義を愛し、不法を憎んだ。それゆえ、神よ、あなたの神は、喜びの油を、あなたの仲間に注ぐよりも多く、あなたに注いだ。」

 いよいよ、ヘブライ人への手紙の本論に入っていきます。とても、難しい内容となっていますが、聖書の言葉がわたしたちの今の生活の中にも恵み深い豊かな言葉となるように祈り求めながら、準備しました。このヘブライ人への手紙が書かれた目的をもう一度整理したいと思います。この手紙は、クリスチャンに宛てて書かれました。教会も信仰者もその生涯の中で試練と思えるような歩みをしていました。決して、順調とは思えません。何事も問題なく歩みが導かれている時ではありません。信仰の灯火が消えそうになるような、信仰の喜び、その豊かさをどこに見出すことができるのだろうかと、葛藤するような時であったかもしれません。あらゆる面で危機的な状況を抱えていたと言っても過言ではありません。その中で、教会や信仰者を揺るがせていた問題は、間違った教えです。そのような、御言葉の真実から離そうとする言葉、情報、教理、教えが教会にいる人たちに押し迫っていたのです。惑わされ、本当に大切なことが何かと戸惑ってしまうような教えです。

 そのことを考えますと、わたしたちの生活のなかにも、本当に大切な御言葉の真実から引き離される教え、考え方、情報が満ちているのです。逆にいうならば、わたしたちの生活がしっかりと安定して、揺るぎないものとして生きるためには、聖書の御言葉を基礎とすることなのです。御言葉に立ち返ること、御言葉にもう一度、聴くことなのです。ヘブライ人への手紙は、混乱する状況の中で、危機的なことを経験していることのなかで、もう一度、御言葉に立ち戻るのです。今日の聖書箇所にも、旧約聖書の御言葉がたくさん引用されています。詩篇の御言葉、サムエル記、歴代誌と、旧約聖書に精通している人たちであれば、すぐに分かるような、理解できるような、内容です。今や、その御言葉に生きる土台が揺れ動かされようとしているのです。

どのような間違った教えが入ってきたのでしょうか。今日の箇所では、天使のこと、そしてその天使よりも、御子キリストの存在が上であることを繰り返し語られているのです。初代教会の中では、天使礼拝、天使の役割を強調することによって、天使をとおして神に近づけるということを教えている人たちがいました。パウロもこのことを警告しています。コロサイの信徒への手紙2:18『偽りの謙遜と天使礼拝にふける者から、不利な判断を下されてはなりません。こういう人々は、幻で見たことを頼りとし、肉の思いによって根拠もなく思い上がっているだけで、頭であるキリストにしっかりと付いていないのです。・・』どんなことが想像できるでしょうか。たとえば、天使に出会ったとか、それが霊的な特別な体験のようにして語られて、その天使との経験をした人が、信仰深い、特別な霊的経験のようにして、その人の言葉や振る舞いが重宝されてしまう、その人の言葉に聞き従ってしまう、その天使経験を持つ人が、神様に近いと思ってしまう、そのような人間的な思いが、教会の中に入ってきたのです。そのことの意味は、神様をともに見上げながらも、ある人は神様に近い人で、ある人はそうではなくて、信仰の測りのような基準で信仰深さが理解されていたのだと思います。特別な状況で、それでも、わたしたちにはとても難しい理解かもしれません。

今日の聖書の御言葉結論を言うと、本当に大切な真実は、わたしたちは、大胆に神様の恵みの座に近づくことができる、ということです。これは、ヘブライ人への手紙の大切なテーマです。ヘブライ人の手紙4章16節にこのことが記されています。「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか。」神に近づけられるというのは、畏れ多いことです。特にユダヤ人の人たちにとっては、旧約聖書で言えば、特別な祭司、預言者が神様に近くということがありました。ですから、そのような背景で考えれば、天使礼拝、天使経験をした人が特別神様に近いように思ってしまったのです。そして、その人たちが、高慢になり、教会を揺るがし、信仰者を惑わしていたのです。ヘブライ人への手紙は、この憐れみを受けて、恵みにあずかったわたしたちが、大胆に神様に近づけられて、祈り、どんな大きな課題を抱えていても、この恵みの座に招かれている喜びをいただいているのです。

 一人は神様に愛されています。特別な人が神様の恵みに招かれているのではありません。特別な存在とも言われた天使でさえ、御子キリストを礼拝しているのです。イエスさまの愛は、全地に満ちているのです。このお方が、わたしたちの罪を贖ってくださり、そして、わたしたちも神の子としてくださり、救いが与えられたのです。

 私たちは、イエスさまをどのようなお方であると信じているのでしょうか。救いが与えられたということは、イエスさまと一緒に生きていうものです。それは何を意味しているかというと、イエスさまに与えられた出来事をわたしたちも共に相続するものにされたのです。一緒に歩む時に、その人が持っているすべての良きものを、この小さな私にも注いでくださり、味わい、体験することができるのです。何がありますか。どんな天の喜びがありますか。キリストと共に歩いていく生涯には、どのような祝福が満ちているのですしょうか。今日の聖書箇所には、御子キリストがどのような神様の恵みの中に生きているか、天使などとは比べることができないほどの天の豊かさを神様はイエスさまに注いでくださっているのです。そして、イエスさまに注がれた愛は、そのままわたしたちの生涯にも与えられているのです。

 今日の聖書箇所は、1章5節「あなたはわたしの子、わたしは今日、あなたを産んだ」詩篇2編7節のことばです。そこには、国の混乱、痛み、悩みがある中で、神様は決して見放さず、王として救い主を与えてくださることの約束がかたられています。もはやその民は見捨てられず、救い主が与えられて、わたしたちの生活は守られることの約束です。だから、安心しなさい、心配したり、動揺したり、戸惑わないで、神様が与えてくださる御業を見ていなさいと語られるのです。天使は、そうではありません。

10節からをお読みいたします。

『また、こうも言われています。「主よ、あなたは初めに大地の基を据えた。もろもろの天は、あなたの手の業である。これらのものは、やがて滅びる。だが、あなたはいつまでも生きている。すべてのものは、衣のように古び廃られる。あなたが外套のように巻くと、これらのものは、衣のように変わってしまう。しかし、あなたは変わることなく、あなたの年は尽きることがない。神は、かつて天使の誰に向かって、「わたしがあなたの敵を足台とするまで、わたしの右に座っていなさい」と言われたことがあるでしょうか。天使たちは皆、奉仕する霊であって救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか。」

 いくつかの旧約聖書が引用されています。一つは、イザヤ書51章6節「天に向かって目を上げ、下に広がる地を見渡せ。天が煙のように消え、地が衣のように朽ち、地に住む者もまた、ぶよのように死に果ててもわたしの救いはとこしえに続き、わたしの恵みの業が絶えることはない。」また、詩篇110編1節「ダビデの詩。賛歌。わが主に賜った主の御言葉。「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう。」主はあなたの力ある杖をシオンから伸ばされる。敵のただ中で支配せよ。」いずれも、困難の中にあるイスラエルの民に語られたメシア預言です。メシアが与えられる、救いは来る、そこに目を留めていなさい、と語られる壮大な神様のご計画があるのです。

 わたしは、日々の生活の中で、小さい事柄、見える範囲の出来事、だれかの振る舞い、だれかの言葉、だれかの態度で、一喜一憂するものです。そして、この小さい視点で物事を見ていますと、しだいに、喜びが失われて、何が本当に大切なことなのかを見失ってしまうことがあるのです。教会も、生活も、わたしたちは、それぞれの現実の中で、一所懸命生きています。そして、与えられている課題もそれぞれ違います。対処しなければいけないこと、毎日の生活でたくさんあります。旧約聖書のイスラエル民も、また、ヘブライ人の手紙が書かれた状況に生きていた信仰者も同じように、ある見える課題の中で疲れ果て、真実も見失い、混沌としていたのです。その時、天から聖書の御言葉が預言者に語られました。「戸惑わないで、見える現実だけを見て恐れないで、神様の救いを見ていなさい」と語られたのです。それを聞いた人たちは、そんなことは信じられないと思った人たちもいました。しかし、その御言葉を大切に心に受け止めた人たちがいたのです。そして、知ったのです。神様は、決してわたしたちを見捨てることなく、救いを与え、真実なる神様の愛のもとに守ってくださることを経験することになるのです。神様の御言葉は、後の時代に、キリストというお方を通して、私たちに語られました。「わたしは、あなたと共にいる。あなたの罪は赦され、救われた」と。このキリストという神様の御言葉に留まって、人生を見つめることができるのです。その時、私たちは何を見て生きるでしょうか。イエスさまがわたしを生かしてくださって、神様の救いの相続を受け継ぎ、天の喜びの中に、今のこの時が与えられているのです。それは、もう一度、わたしたちを見つめる時です。苦しみや、痛みがある時、その状況だけがわたしたちを支配しているのではありません。もっと、真実にわたしたちは生かされているのです。

 完全な救いの成就に向けて、わたしたちの今があります。いつでも、イエス様に近き祈ることができます。そして、天使は救いを受け継ぐことになっている人たちに仕えて、キリストの救いある喜びを思い起こさせてくださるのです。どんなに大きな守りの中に置かれているでしょうか。ちょうど、今週から受難週がはじまります。明日から金曜日まで、まいにちイエスさまを思い起こして過ごしたいのです。そして、来週、イエスさまの恵みを讃えるイースターの時を迎えましょう。

お祈りいたします。