読む礼拝メッセージ

2019年2月10日主日礼拝   ルカによる福音書22章35−53節
「祈りが未来を開く」

わたしは、東京基督教大学の二期生なのですが、同級生で、和歌山県の白浜で牧師をしている藤䉤先生というお方がいます。自殺の名所として有名な三段壁の近くにある教会です。命の電話の働きをずっとしています。最近、その働きがドキュメンタリー映画となって東京で上映されました。数年前、その和歌山を訪れ、藤藪先生のお働きもみてきました。「あなたを諦めない」というタイトルの書物も出版されました。崖の上にたち、もう自分の人生はここで終わりだと思う人たちに、生きる道を伝える働きをしています。

イエスさまは、そのように人々に寄り添ったのだと思います。そして、「わたしは道である」とヨハネ福音書の中では語られました。それは、単にキリスト教という宗教のことを示していることではありません。この世には、自分の力や知恵で生きようとすると、どうも、それぞれの限界を感じてしまうことがあるのです。問題のない人生を歩む方もいれば、多くの課題の中で生きることもあります。それでも、本当の喜びを感じて続けて歩いていくためには、自分の知恵や力を超える何かを経験する必要があるのです。それが、イエスさまにつながることなのです。いろいろな課題に直面するとき、自分ばかりを見ていますと、限界を感じて、もうこれ以上進む道がないと思い込んでしまうようなこともあるかもしれません。しかし、わたしたちは、不思議なことを経験するのです。イエスさまにつながるときに、自分の中から生じたとは思えない、力、知恵、歩む導きを感じることがあるのです。すべてのときがそうだと言えません。葛藤することがあります。落ち込むこともあります。それでも、上から慰め、励まし、イエスさまが共にいて語りかけてくださる御言葉があることを知るのです。今日も聖書を通して、その恵みの御言葉に出会いたいと思います。

ルカによる福音書22章35節からをお読みいたします。
『それから、イエスは使徒たちに言われた。「財布も袋も履物も持たせずにあなたがたを遣わしたとき、何か不足したものがあったか。」彼らが、「いいえ、何もありませんでした」と言うと、イエスは言われた。「しかし今は、財布のある者は、それを持って行きなさい。袋も同じようにしなさい。剣のない者は、服を売ってそれを買いなさい。言っておくが、「その人は犯罪人の一人に数えられた」と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかかわることは実現するからである。そこで彼らが、「主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります」と言うと、イエスは、「それでよい」と言われた。」

今日の聖書箇所は、非常に理解しにくいところです。最後の晩餐の場面を共にみていきましたが、そのあとに、これはイエスさまが十字架にかかる直前に言われたような言葉です。ルカによる福音書にしかこのイエスさまの言葉はありません。イエスさまの時代からだいぶ後の時代にこのルカによる福音書が書かれました。史実に基づいて、そして、神様の霊的な導きの中でこのイエスさまの言葉を書き残しました。当時の教会が非常に難しい状況に置かれ、迫害、信仰の戦い、それらの現実的な問題がある中で、イエスさまの言葉を思い起こすのです。

ルカによる福音書9章1節からの箇所には、次のように記されています。「イエスは12人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。そして、神の国を宣べ伝え、病人をいやすために遣わすにあたり、次のように言われた。「旅には何も持って行ってはならない。杖も袋もパンも金を持ってはならない。下着も二枚持ってはならない。」と言って、お弟子さんたちを宣教に遣わしました。その時のことが今日の聖書箇所にも記されています。しかし、その後で、「しかし今は」と語り出したのです。正反対のことをいうのです。矛盾と思える、そのようなことです。イエスさまが、ルカの9章でお弟子さんたちを遣わした時には、何一つ不足することなく、圧倒的な神様の守りの中で、宣教の御業が起こされたのです。しかし、今は違う時をイエスさまとお弟子さんたちは歩くことになるのです。この二つの時があるように思うのです。それは、わたしたちの信仰の歩みに共通することがあると思います。イエスさまとともに歩みのなかで、様々な時があります。それは、どのようになってこの時なのか、また違う感覚や経験することも異なることなど、神様を近くに感じる恵みの時と、試練と葛藤の中で、神様の真実がみえなくなってしまうような時を経験するときがあるのです。なぜだろうと思うと、自分の信仰の足りなさを責めたりしてしまうことがあるかもしれません。イエスさまもお弟子さんたちも、十字架を前にして、そのような試練と葛藤を覚えるのです。どのような意味があるのでしょうか。説明が非常に難しいことでもありますが、一つのことを思いました。それは、この世と霊的な恵みのバランスが移動することがあるのです。

ルカによる福音書9章では、神さまの霊的な力をお弟子さんたちは経験しました。驚くようなことです。この世のものは何も持っていなかったのですが、神様のすべてを守り、導き、備えられました。それは、霊的な恵みが豊かに与えられている時です。わたしたちは、そのような霊的な備えが豊かな時を生きることがあります。しかし、この世には、もう一つのことがあります。それは、霊的な光が豊かに注ぐその所に、暗雲が立ち込めるように、すべてのものが暗く、その霊的な光が遮られるのです。神様がともにいなくなったのではありません。これはバランスです。この世のちからが強くなる時があるのです。それは、祈りの時です。試練の時です。しかたなく、この世の知恵をもって生きる時があるのです。それは、誤解しないでほしいのですが、この世の事柄が大切で、結局信仰よりも、この世の基準で生きなければならない、ということではないのです。それは、神様の大きなご計画を思えば、わずかな時間なのです。十字架というのは、そのようなものだったのです。イエスさまは、十字架の上で「神の子なら、十字架から降りてみろ」と罵倒されました。しかし、イエスさまは、神の子でありますが、十字架から降りません。そのまま死んだのです。敗北のように思うかもしれません。結局信仰の喜びも虚しいと感じてしまうかもしれません。しかしその時は、神様は許されたのです。天国に行けば、明らかにすることがたくさんあります。この世では理解に苦しむこと、わからないことがたくさんあります。それも、神様の御手の中にあるのです。そして、「今はがまんしてほしい」ということではないかもしれませんが、そのように、忍耐の時、祈りの時、この世の闇に対峙しなくてはいけない時があるのです。十字架に近づき、この世の勢力、信仰の灯火が小さく感じられる時を経験しますが、その先に、神様の栄光があるのです。だからこそ、祈りの時に導かれるのです。

39節からをお読みいたします。
『イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻ってご覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らないよう、起きて祈っていなさい。」

ここに二つの事柄があります。霊的な戦いの祈りのようなものなのです。世の事柄強くイエスさまのところに迫ってきます。激しい時です。信仰を必死に奪おうとする暗闇の力と言ってもいいでしょうか。誘惑に陥るその寸前まで追い込まれるような時です。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください・・。」何という切実な祈りでしょうか。闇の力がイエスさまに押し寄せているかのようです。必死で、必死で、イエスさまは、「しかし・・」と祈りました。「わたしの願いではなく、御心のままに・・」勝利するのです。信仰の道を歩くのです。ここで明らかになりました。この世と信仰の道の決定的違いです。闇の力は、祝福に変わる苦しみの杯を受け取らないようにするのです。こんなに大変なんだから、もう聖書読むのをやめようと言うのです。信仰も虚しいから、神様を信じるのをやめようと語るのです。闇の力が大きく心を支配しようとします。人間は無力です。イエスさまでさえ、この信仰の葛藤の中に置かれることがあるのです。土俵際に追い詰められるようなことでしょうか。しかし、わたしたちは、すべてを奪われ、精神も心も肉体も様々な試練を経験するなかで、神様の助けによって、「わたしの願いではなく、御心のままに」という祈りに導かれていくのです。勝利の祈り、解放の祈り、喜びにつながっていく希望の祈りです。それは、神様がわたしたちの人生に働いていくださるという祈りなのです。わたしたちは、祈っていても、信仰の歩みを続けていても、どうしても、自分の願いから、わたしの願いから離れることができません。悪の力は、「わたしの願い」に執着させようとするのです。闇の力は、私たち自身の事柄にのみという考えに標準を合わせるのです。しかし、そこに不自由が生まれます。愛が冷え、自己中心的になり、どこまでいっても、不満足で、人生を喜び、自分自身を尊ぶことができなくなってしまうのです。それは、わたしの願いに固執させようとする力に負けそうになっているのです。それは、だれもが経験することであると思います。しかし、わたしたちは、自由な道に歩みたいのです。解放と癒し、神の国の祝福の中に歩みたいのです。それが「わたしの願いではなくて、御心のままに」という祈りなのです。イエスさまは、この霊的な戦いを経て、十字架に道に歩まれます。本当の正念場は、このオリーブ山での祈りでした。この後、ユダの裏切りを目にします。そして、十字架の死に至る道に歩むのです。イエスさまは、ここで勝利しました。だからこそ、もうユダの裏切りも十字架の苦しみも、もう本当の意味では解決しているのです。もし、わたしたちは、あらゆる苦しいの中で、「わたしの願いではなく、御心のままに」という祈りに導かれるならば、その先の人生のあり方が変えられていくのです。人間はそのような霊的な戦い、信仰が揺さぶられるようなことに、勝利し続けることができるのでしょうか。果たして、土俵際まで追い詰められて、そこから信仰の道に歩みだすことができるのでしょうか。ペトロはできませんでした。お弟子さんたちも寝てしまいます。ユダも裏切りました。前回のところですですが、ペトロにイエス様が、サタンがふるいにかけようとしている、ということを語りました。しかし、イエスさまは、信仰が無くならないように祈ったと言ってくださったのです。わたしたちは、勝利することができません。しかし、信仰とは、この十字架の道に、神様の御心がなるようにと、胸を張って生きたイエスさまに守られることなのです。イエスさまが、わたしたちのために祈っていてくださっているのです。闇の力もそれに打ち勝つことができないほどの祈りの力が覆っているのです。誘惑に陥らないように、イエスさまと祈ることが大切なのです。

47節からをお読みいたします。
『イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、12人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻しようと近づいた。イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。それからイエスは、押し寄せてきた祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやってきたのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あんたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」

イエスさまに近づいてくるのは、まさに裏切りと闇の力でした。そこでは剣が間に置かれます。人を傷つけ、陥れ、希望を奪い、愛を憎しみに変える力が迫ってくるのです。しかし、剣は問題を解決しないのです。強さと権力でも、神の国の福音を打ち砕くことはできないのです。イエス様は、十字架の道に歩まれました。そして、闇が支配する時があることをはっきりと語られました。「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」ことがあるのです。真実が閉ざされ、力の原理が働き、苦難をも希望に変える力を感じることができない時です。しかし、やがて、この闇は、光に圧倒されます。十字架は闇の支配の頂点であるかもしれません。しかし、復活はすべてのことを変えるのです。闇は隅に追いやられ、神の国の光が照らされるのです。イエスさまにある勝利があることを信じて歩いていきたいと思います。