読む礼拝メッセージ

    

2020年3月22日主日礼拝 

フィリピの信徒への手紙3章10―16節
「今の時代の希望」


ファミリーフォーラムマガジンというキリスト教の雑誌に、「みことばはわたしを生かす」というタイトルで、御言葉からのメッセージを2年間連載していました。今年の春で終わりとなりますが、とても良いわたし自身の学びとなりました。この「みことばはわたしを生かす」というタイトルは、編集者の方から与えられて、そのテーマで書くようにと言われたものですが、改めて、この聖書の御言葉によって生かされることがどのような意味を持つのか考えされられた時でした。今日も私たちはこのように集い礼拝をささげています。礼拝は、前奏、招きの詞からはじまって、祝祷、奏楽があります。それは、決して形式的なことでも、何かのプログラムをただ進行しているのでもありません。ここに神さまと共にある命があります。無機質な時間ではありません。躍動的な時間です。誤解を恐れずに言えば、私たちの内の何かが変わる時なのです。最初に招きの詞を聞き、神さまの臨在に入れられた私たちは、最後の祝祷までに、人生の目的、方向性、今週歩むための知恵と備え、あらゆるものをわたしたちは、手にして、ここから派遣されることです。そこにみことばはが語られています。わたしは、いつも畏れ多く感じています。神さまの声を聞きたいのです。そして、その恵みをそのまま、川の流れが豊かであるように、命の泉がこの会堂に満ち溢れるように、ここで礼拝をささげている人も、それぞれの場所で礼拝をささげてる人の内にも、静かに豊かに流れ出るみことばの泉があることを経験したいと思っています。
 今日もみことばがわたしを生かすために、聖書に聞きましょう。今日は、本来は生島先生に説教をしていただく予定でしたが、コロナウイルスの影響もあり、先生のご健康も気遣うことが必要ですので、6月に延期をしました。一刻も早く、終息し、みなが安心して生活できる時がくることを祈り求めていたいと思います。今、マルコによる福音書からお話ししていましたが、今回は、導かれて、フィリピの信徒への手紙3章10節のところからを見ていきたいと思います。
『私は、キリストとその復活の力を知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスによって捕らえられているからです。』


 フィリピの信徒への手紙は、喜びの手紙と言われています。パウロが、獄中から書いた手紙ですから、決して状況が良いというわけではありません。それでも、パウロの内側には、神さまにある喜びが満ちているのです。とても不思議なことです。聖書の中に出てくる「喜び」という言葉の意味を調べて見ました。私たちが一般的に使う、「喜び」というのは、外側の状況に深く関係しています。何を経験しているのか、どのような状況にあるのか、その外的な影響が、心にも影響を与えて、喜びや憂いを抱くことがあります。しかし、聖書の喜び、パウロがいまここで得ている喜びは、外側ではなく、内側に影響されている喜びなのです。外側からくる喜びと、内側から溢れる喜びというのは、同じ言葉を使っていても、本質的には全く違うものです。


 3章7節からのところを読みますと、このように記されています。「私にとって利益であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主イエス・キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失と見ています。キリストのゆえに私はすべてを失いましたが、それらを今は屑と考えています。キリストを得、キリストに内にいる者と認められるためです。」そして、今日の言葉に続いていきます。それを読んでいるだけで、パウロのうちにあるイエスさまの喜びが伝わってくるようです。この喜びを豊かに感じる秘訣があります。それが、喪失と再生というものです。この道を辿ります。そして、ここから生み出される喜びと希望と愛は、決して尽きることはないのです。私たちは、喪失を恐れます。どこまでも解決できない問題や、このまま暗闇の世界にとじ込まれてしまうのでないかという不安、希望を全く見ることのできない状況にすべてが嫌になってしまいます。それでも、私たちがこの聖書の真実を知っていたら、どのように希望が生まれるのかを知ることができるのです。パウロの言葉でいうならば、復活の力を知っているということです。この復活の力を経験するために、喪失を通ります。それは、とても大切な時でもあり、とても大変な時でもあります。イエスさまから目を離すことができません。それでも、私たちはこの喪失の時を通して、ここから立ち上がらせるイエスさまを知ることができるのです。苦しみにあずかって、その死の姿にあやかる、それは、簡単な言葉ではありません。パウロがこの苦しみの中で、もがくような時です。実際、獄中にいますから、周りの状況は決して楽ではありません。苦しみや死の姿ということに簡単に勝利しているのではありません。それが、「何とかして死者の中から復活に達したい」ということなのです。パウロほどの人です。ものすごく大きな信仰の恵みを体験している人です。何通もの手紙を書き、教会を励まし、多くの人々をキリストに立ち返らせた人物です。どれほど、豊かな歩みをした人でしょうか。しかし、その人がもがいているのです。否定的になっているわけではありません。不信仰だからということでは全くありません。この苦しみにもがく姿こそ、パウロ自身の内なる信仰を強めている時なのです。イエスさまへの信頼をもって、私たちは苦しみます。死の姿にまで追い込まれて、普通に考えられば、これからどうなってしまうのだろうかと恐れます。その中でこそ、神様の圧倒的な勝利、信仰の恵みの力強さ、確かさ、その復活の力を知るのです。この復活の力は、深淵です。復活を信じているとか、それを知っているのか、そう考えている時は、まだ本当の復活の力を知らない時かもしれません。なぜなら、パウロも「私は、すでにそれを得たというわけではなく、すでに完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」と語っています。解決していないけれども、解決しているのです。苦しみについてのその結末を知っていながらも、苦しんでいるのです。その間、イエスさまの大きな愛の手がパウロを捕らえているのです。それが必要なのかもしれません。その状態で良いのかもしれません。苦しみ、もだえながら、イエスさまの手に支えられている姿です。何かを得たと思えば、イエスさまを必要としてなくなってしまうのかもしれません。完全な者と思った瞬間に、自分が神になっていることを気づけないのです。


13節からをお読みいたします。
『きょうだいたち、私自身はすでに捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。だから、完全な者は誰でもこのように考えるべきです。しかし、あなたがたが何か別の考え方をしているなら、神はそのことも明らかにしてくださいます。いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進みましょう。』
 捕らえるというのは、手で掴みとるというものです。私たちは、何を手で掴みとったら、満足でしょうか。聖書には、たくさんの宝があります。神さまから人生の喜びもいただきます。愛も喜びも平安も、御言葉の中から経験します。この恵みの神様を信じて生きる姿の中に、この世では決して経験できないようなあらゆるものをいただくことができます。パウロは、その先頭を走っている人のように、あらゆるものを手にして、喜び、苦しみの中にあっても、立ち上がる力を豊かに経験していたのです。それでも、私自身はすでに捕らえたと思っていません、と語るのです。私たちは、この信仰の恵みを経験する時に、何かを掴むことに集中してしまうかもしれません。教会にもたくさんの人たちがいます。人は、どのような場所においても、人間関係の中で生きてきましたから、人が気になるのです。だれが何を捕らえるか、自分はそれを捕らえることができるだろうか、あの人がもっているような信仰の恵みを感じたいと思ったり、信仰を持ちながらも、人が何を得ているかの方が気になってしまうのです。パウロは、何も持っていないといいます。何も得ていないというのです。そして、信仰の歩みのとても大切な部分を語るのです。
 なすべきことはただ一つなのです。後ろのものを忘れて、前へ前へ、傾けて、走ることです。後ろのものを忘れるというのはどのようなことなのでしょうか。そこには、目を見つめて、ひたすら一つの目標に向かって走る姿があります。パウロは、なぜ、このような言葉を語り、フィリピの教会の人たちを励ましたのでしょうか。教会は試練の中におかれていました。迫害あり、喜びは失われていました。もう一度、信仰をもって生きる人たちの中に、喜びが必要でした。ただ喜びなさいと語ったのではありません。忍耐しなさいと言ったのでもありません。具体的な生き方、走り方、信仰の喜びを持ちながら、生きる方法があるのです。一つひとつ私たちは、信仰の歩みの中で、この生きる姿勢を整えます。それぞれのペースで、自分自身を見つめます。人との関係ではありません。今経験しているこの困難をどのように克服するかということではありません。神様と自分の立ち位置の中で考えます。後ろものを整理しなければなりません。後ろのものが、私たちの信仰の歩みに大きな影響を与えているのです。パウロの後ろのものは、本当に重たいものでした。自分ですら、罪人の頭と呼んでいたのです。思いおこしたくないようなことかもしれません。私たちは、人間ですから、たくさんの過去を背負って今を生きています。しかし、今を生きていても、過去のものがものすごく大きく影響を与えているのです。人々が喜びを失う原因の中に、過去のものが大きな荷物のようして心を占めているのです。罪や傷や多くのものが人生の荷物のようにして、信仰の喜びを奪ってしまうことがあるのです。後ろのもの、イエスさまは、一緒に過去にも旅をしてくださるのです。そして、パウロは、罪が深ければ深いほど、恵みは豊かであることを知るのです。罪を軽んじることではありません。過去はどうでもいいということでもありません。むしろ、きちんと受け止めて、整理して、今日からを前を向いて歩いているということです。後ろのものに支配されることなく生きる道があるのです。後ろから声が大きく響くのです。もう、それらの声を聞くことをしません。前からの声を聞くことです。自分の過去からの自分のメッセージ、他の人のメッセージによって、今の自分を築くのではありません。イエスさまの言葉で自分を築くのです。後ろに傾きそうになることがたくさんあるのです。過去の重荷に支配されて、そのことに思いを傾けなくていいのです。前かがみです。後ろに傾きそうになったら、前へ前へ、イエスさまの姿を強く、豊かに意識するのです。


 そして、誰かが何かを得ていることを気にすることはしません。周りだけを見て生きていくと、その足取りを遅くしてしまうのです。何を得たかではなくて、何を求めているか、ということがその足取りを軽く、神様の御心の中に歩いていくことができるのです。目標を目指して共に走ります。その者が完全なものというのです。この世は、ひたすら一生懸命、何かを獲得して、手にすることを目標とすることでしょう。いっぱいのものを手に持っていることが、人生の幸せと呼ばれます。皆、たくさんの幸せという荷物を得るために、走っているのです。持てば持つほど、その荷物は重くなるのです。余裕はなくなり、愛することを忘れ、ひたすら何かを獲得するための果てしない消耗するだけの競争をしているようなことなのです。
 私たちは、知ります。何かを得たということが目標ではないのです。上へと召してくださる賞があるのです。どのような賞なのでしょうか。どんなに高価でよいものなのでしょうか。それでもまだ、いやこの地上では明らかなものとしては手にすることができないものなのかもしれません。しかし、それを求め続けるのです。この人生の道のあらゆることは、神さまに召されている出来事なのです。苦しみがあります。心配があります。その一つひとつの出来事を通して、私たちは、天を見つめるようにと招かれているのです。やがて、知ることができます。この招きに応えを続けて、どんな時にも神様の助けを求め、前へと思いをむけつつ、今週も走っていきましょう。