読む礼拝メッセージ


 

2020年1月19日主日礼拝    

ヘブライ人への手紙13章7−19節
「恵みで強くなる」


 いよいよ、ヘブライ人への手紙もあと2回となりました。このヘブライ人への手紙は、教会が存続できるかどうかの危機の中で、希望の手紙となりました。神様を信じて生きていくことの本当の喜びを見失っている人たちに、もう一度神様の愛に気づき、心を変えていただき、歩いていく大きな変革の言葉となりました。わたしたちは、自分で自分を変えることは本当に難しいことがあります。当然、誰かの思いが変わってほしいと願っても、人の言葉は無力に感じることがあります。聖書の御言葉には不思議な力があります。聖霊の導きの中で、御言葉自身が生きて働き、人の思いの中に良き神様の御言葉の種を巻いてくださるのです。その種は神様の愛です。その種が巻かれると、神様が意図したように、その人生の計画と喜び、人生の尊さ、それらのことを知るようになるのです。どのようにその変化が具体的に訪れるのでしょうか。
 最近、感じていることは、これは、自分自身のことですが、聖書を読むときに、どうにか自分の思い込みや視点から見るということから離れて、神様の視点、上からの思い、神さまがどのような意図をもって、人生の計画を導いてくださっているかを知ることができるようにと祈っています。それは、もっと具体的に言うならば、聖書の御言葉は、神様の深い愛に基づいて語られているものですから、真実なものとして受け止めながら、愛に基づいて何事も考えていきたいのです。その時、私たちの心の向きが変えられていきます。神様の愛は、わたしたちの頑なな心もうちくだき、神様にある希望の計画が人生の中にあることを知らせてくださいます。恐れは私たちの心にあります。神様の恵みから離れていろいろなことを見ることもあるかもしれません。それでも、そば近くに神様の存在があり、その肩の恵みは今日注がれます。安心して、心を開いて、御言葉の恵みを受け止めていきたいと思います。


ヘブライ人への手紙13章7節からをお読みいたします。
『あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。いろいろ異なった教えに迷わされてはなりません。食べ物ではなく、恵みによって心が強められるのはよいことです。食物の規定に従って生活した者は、益を受けませんでした。わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。』
 信仰をもって生きる道は、どのような中にあってやり直すことのできる気づきを与えてくれます。自分でもうダメだと思っても、自分の知恵では、これ以上良いことを考えることができなくても、神さまの恵みに気づくならば、わたいたちは、祝福の実を豊かに結ぶ人生へと整えられるのです。
 まずは、わたしたちが神さまの愛を受け止めて、どのように生きていけばよいのか、その見本となる人の人生を見つめることです。このヘブライ人への手紙で言えば、13章7節に「神の言葉を語った指導者たちのことを思い出しなさい」ということでした。信仰者の見本、どのように語り、生きたかということをまずは見つめるのです。自分がそう生きられるかとか、何かと比べているわけではありません。まずは、見本、型、目指すべき生き方の方向性、その目標を見つめるのです。神の言葉を語った指導者、という具体的に誰のことを指しているのかはわかりません。しかし、このヘブライ人への手紙を読んでいる人たちは、二世のクリスチャンの人たちが多かったと言われています。初代の人たちがいました。第一世代のクリスチャンたちがいました。その人たちの人生は、決して楽なものではありません。激しい試練、迫害、信仰のともし火が消されてしまうような世の激しい試練の中に生きた人たちだったのです。わたしたちの信仰は、実は、試練によって本物と証明されます。この第二世代の人たちは、その生涯を見ていましたけれども、逆にひるんでしまったのかもしれません。そして、苦しみの意味を正しく理解することができずに、信仰から離れようと、教会から離れようとしていたのです。なぜ、神様は苦しみを与えるのだと思っていたのかもしれません。その感情も思いも理解できます。しかし、神さまから離れては本当の幸いはないのです。神様の恵みから離れて本当の癒しも、人生の尽きない喜びも充実もありません。神様の恵みのもとに留まることなのです。それは、何度も聞いてことのあるメッセージであったと思います。分かっていても激しい迫害や苦しみの中で、どう信仰にとどまることができるのでしょうか。そのことにヘブライ人への手紙は、挑戦しているのです。イエス・キリストは、きのうも今日も、永遠に変わることのないお方です、と語れています。今生きておられるお方としてここにいるのです。わたしたちは、イエスさまをどのように知ることができるでしょうか。どのように信仰を体験しているでしょうか。御言葉は聞いています。その御言葉は本当にそうなのかと実感できないこともあるかもしれません。信仰は、今体験できる、今生きておられるキリストの出来事です。なぜ、それが実感できないでいたのでしょうか。しばしば私自身の現実でもあります。ここに、いきなりユダヤ人が旧約聖書で学んでいた食物規定のことが書かれています。旧約聖書のレビ記をみますと、その細かな食物規定のことが記されています。その食物規定には、いろいろな意味がその当時、旧約聖書の時代にはありました。衛生的な問題、そしてその食材は、偶像礼拝のささげものと合わせて、異教世界では考えられていましたから、神の民の純血性を保つ必要があった状況の中では、食べてよいもの、食べてはいけないもの食物の基準がありました。ユダヤ人の人たちは、律法を厳守していましたから、その枠組みの中で生活をしていました。しかし、このイエスさまの以後、イエスさまを体験すること、その内在のキリストに生きること、恵みによって強くなるということを語られるのです。それは、ユダヤ人キリスト者にとって最も難しい課題でした。自分自身の中に染み込んでいる律法主義の思いがあるのです。恵みによって強くなることをどう理解することができるのでしょうか。それは、私たちがどう自分という枠組みの外に出ることができるかにかかわっています。以前とものと今のもの、私の考えとキリストを内在させること、この変化をどう経験するのでしょうか。律法で考えれば、恵み理解に転換させるためには、古いものや染み込んでいる考えを決して否定しないことです。それは以前のものでした。しかし、キリストが現れた時に、それはより良いものに意味づけされたのです。その古いかたちはありますが、それがステップアップして、より良い完成した姿になったのです。律法は、影であったと言われていますが、決して否定的な意味ではありません。それは必要だったのです。律法は大切だったのです。しかし、本質に出会ったのです。本質にだった時に新しい考え、自分の思考の枠組みの外に出て、全く自由に、喜びと期待をもって、わたしたちは、きのうも今日も、永遠にキリストは生きていると告白することができるのです。


12節からをお読みいたします。
『それで、イエスもまた、ご自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです。だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか。わたしたちはこの地上に永続する都をもっておらず、来るべき都を探し求めているのです。だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に捧げましょう。善い行いと施しとを忘れないでください。このようないけにえこそ、神はお喜びなるのです。』
 ここには、キリストを信じる人の本質的な生き方が示されています。それは、自由になる喜びです。彼らがキリストの内在をなかなか経験できなかった理由があります。不信仰だったからではありません。他の人よりも信仰が足りなかったということでもありません。自由を知らなかったのです。誠実に生きようとしていましたが、律法主義の中でキリストを見ていたのです。イエスさまは、門の外で十字架につけられました。その十字架に近づこうと招かれているのです。十字架は罪の赦しです。当時は、律法の厳守、いけにえを捧げること、それらが神様に認められる唯一のことだと思っていたのです。その枠組みの中での信仰生活でした。しかし、新しい時代がきたのです。キリストの十字架に近づくことによる罪の贖いと赦しです。突然、神様の気が変わったのではありません。律法の完成がイエスさまの十字架だったのです。それは、あらかじめ神様が定めていた計画です。しかし、その歩みに切り替えるということができなかったのです。宿営の外というのはどのような世界でしょうか。ささげものをよりよくささげて救われるということの方が理解しやすいのかもしれません。ある枠組みの中での人生の方が自分のアイデンティティが確立しやすいのです。宿営の外に出たら、そこは不確実なところのように、この世の拠り所がないように思ってしまいます。この世の何かにしがみついている方が、理解しやすく、生きやすい面があります。信仰は、ただイエスさまに依り頼むことです。大丈夫なのでしょうか。この世の確実な歩みに導いてくれるのでしょうか。私がきちんと未来を見据えて生きることができるようになるのでしょうか。宿営の外に出るというのは、この世の何の拠り所も失うと思ってしまうからです。不安なのは当然です。今まで実際の動物のいけにえいによって、神様への信仰を表明していたので、宿営の外の十字架に出会う経験は、不確実でそれによって罪の完全なゆるしがあることを理解できなかったのです。でもそこは、わたしたちの意識が新しく自由に場所なのです。イエスさまにより頼みます。いや、その他に救いがないからです。そして、わたしたちは、地上の都、安定、幸福、その価値を求める歩みから、もっと広く、豊かで、永遠に変わることのない天の都をしたい求めて生きるものなのです。いけにえはどうしたいいですか。ささげものはどのようにしたら良いのでしょうか。賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実でいいのです。行いではありません。完全になることでもありません。神様が願っていることは、御名をたたえていきることです。たたえるということは、深い祈りから生み出されます。簡単で、感情的で、感覚的なものではありません。絶えず、いけにえをささげます。難しいこともあります。労苦もあります。それでも、御名をたたえて生きていくのです。委ねて、信頼して、神様は、必ず良いことを備えてくださると信じて生きることです。たえず、賛美しましょう。それは、喜びの出来事があるからではありません。今、平安だからということではありません。苦難の中で、もしかしたら、激しい試練と思えることの中で、たえず賛美のいえにえをささげるのです。今まで、味わったことも、経験したこともないような深い喜びの人生となるのです。善き業がわつぁいたちの信仰の人生の土台となっていきます。


17節からをお読みいたします。
『指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい。この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています。彼らを嘆かせず、喜んでそうするようにさせなさい。そうでなあいと、あなたがたの益となりません。わたしたちのためにも祈ってください。わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています。特にお願いします。どうか、わたしがあなたがたのところへ早く帰れるように、祈ってください。』
 御言葉を語り、伝えていく人とひとつになろうというとても大切な言葉です。御言葉の前で一つになりたいのです。何か指導する者は、支配したり、権威を振り回したりするものではありません。私自身に置き換えて思えば、本当に不十分なものです。しらずにだれかを傷つけ、誰かの誠実な思いを受け止めていないこともあるのかもしれません。みなさんを落ち込ませたり、傷つけてしまっていることもあると思います。本当に申し訳なく思います。それでも、この教会がキリストの教会となり、そこに集う一人ひとりが、本当に豊かな神様の恵みの中を歩いてほしいと毎日考えています。どうしたらよいのかと苦悩しています。それでも、神様の恵みによって共に強められ、困難を乗り越えて、一つとなりたいのです。神様の永遠の都を待ち望み、賛美の果実をささげたいのです。主は良いお方、良いものを与えてくださる方、決して見捨てないお方、その方の愛に支えられていることを、深く共に経験するためには、できることのすべて、わたしのすべてを差し出したいと思っています。
 賛美の口をもって、一週間歩いていきたいと思います。