読む礼拝メッセージ

2019年10月6日主日礼拝  

ヘブライ人への手紙11章17−22節
「信仰に生きる喜び」


 最近、教会に生きる喜びについて考えています。というのは、ある方になぜに日曜日に教会に行くことが大切なのですか?と質問されたからです。日曜日のことの時間は、みなさんにとってどのような時間でしょうか。お聞きしたいと思いました。最近は、土曜日、日曜日おやすみの方がおおいです。教会の周りでも、うちの近所でも、何か家族でのイベントに出かける人もいます。自然の中でリラックすることも必要ですし、気分転換になるようなこと、普段できないことをすることもとても大切だと思います。詩篇にこのような御言葉があります。詩篇133編1節「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」そこには、一同に集うことの喜びが記されています。当時、イスラエルの人たちは、年に一度はエルサレムの神殿に集まりました。何にも旅をしてエルサレムの神殿にたどりつきます。そして、そこに集う人たちと一緒に礼拝をささげました。そこには、聖霊の喜び、平和、自由が満ちていたのです。


 ここに、この世にはない神様の臨在が溢れています。そして、ここに集う人たちと一緒に賛美をささげる時に、祈り求めるとき、神様の御言葉に聞くときに、人々の心は満ち溢れたのだと思います。いつも祈りもとめていることです。自分の心のうちには、様々なものが満ちていますが、神様を求める祈りが心にみちるようにしてください。この世のものではない平安を心に満たしてください。ともに集う人たちが聖霊の喜びに包まれて、教会で過ごすことができますようにと願っています。
 なんという恵み、なんという喜び、神様が生きて働いてくださる御業を今日もともに経験したいと思います。


ヘブライ人への手紙11章17節からをお読みいたします。
『信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました。つまり、約束を受けた者が、独り子を献げようとしたのです。この独り子については、「イサクから生まれる者が、あなたの子孫と呼ばれる」と言われています。アブラハムは、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです。それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったも同然です。』
 アブラハムという人物を通して、信仰の歩みについてヘブライ人への手紙は説明しています。あるときに、アブラハムは、神様の御言葉の出会いを経験します。信仰の歩みの出発はここにありました。アブラハムが信仰を求めたからではありません。良い歩み、神様に近い人生を歩いていたからでもありません。異国の地にいて、その土地の神々や生活の影響を受けていて、その中からただ一方的によびかける神様の御言葉に出会ったのです。それは、祝福の言葉でした。わたしたちは、どんな聞きたいのでしょうか。それは気休めやまやかしではありません。真実の言葉を聞きたいのです。それは、神様がこの世を造られた目的に通じています。人は、祝福の存在、神様の喜びの存在として生かされています。この世には悲しみが満ちています。憂があります。本当の祝福を見失うほどです。良いこと、福音、それらの光がすべて覆われてしまうような錯覚に陥ってしまいます。祝福を信じられなくなるのです。愛されていることを尊い人生に生かされていることを見ることができないほど、暗闇に引きずられてしまうことがあるのです。だからこそ、わたしたちは、自分の行いではなくて、自分の信仰深さということでもなくて、ただ神様の御言葉に生かされるのです。アブラハムは旅立ちました。天の都を憧れるようにして、この世に固執することはありませんでした。この世ではよそ者、寄留者として、生きたのです。そこに信仰の歩みの本質があります。何にも固執しない、この世にしがみつかない、嘲られても、この世ではよそ者として、それでも、もっと素晴らしい神様の恵みのときを待ち望むかのようにして、歩いたのです。苦労があったと思います。試練が続いたと思います、それでも、神様はいつでもアブラハムに寄り添い、その信仰を育まれるのです。


 今日の聖書箇所、ヘブライ人への手紙11章には、信仰について説明しています。信仰は、神様の御言葉の招きによって人々の心に宿り、そして育んでくださるのも、成長させてくださるのも神様なのです。どのように信仰の確かさを育んでくださるのでしょうか。そのことが今日の聖書箇所に記されています。アブラハムは、試練を受けました。信仰者に試練があるのです。その試練は、決して簡単に乗り越えられるものではありません。打ちのめされて、非常に深い苦悩を経験することになります。信仰の歩みで、いつでも勝利しているのが力強い信仰ではありません。アブラハムも試練の中で苦悩したのです。試練というのはいったい何なのでしょうか。なぜ、この世で試練を経験することがあるのでしょうか。このときのアブラハムの苦悩は何であったのでしょうか。試練というのは、ある一つの特徴を持っています。その苦しみというのは、本質的には、神様の思いとご計画を見失うような出来事を経験することです。アブハラムには、イサクという約束の子が生まれました。それは神様があなたの子孫を夜空の星のように増やすと言われた約束の実現でした。それは、この世で味わった、ものすごく大きな恵みの出来事であったのです。神様の御業の素晴らしさ、その約束の確かさ、アブラハムは確かに祝福に満ちた出来事を経験して、喜んだのです。しかし、その信仰の歩みの中で、次の段階がありました。創世記21章1節からのところに記されています。「これらのことの後で、神はアブラハムを試された。神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子伊作を連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」アブラハムは、イサクを連れて、モリヤの山にいきました。葛藤があったと思います。神様は、約束の子として、子孫繁栄の約束としてイサクを与えてくださったのに、それを焼き尽くすささげものとしてささげる、ということの意味を考えていたのだと思います。三日間そのときを過ごしたと聖書は記しています。どのような気持ちだったのでしょうか。ヘブライ人への手紙の中では、「神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じたのです」とそのときのアブラハムの心境を記しています。もちろん、聖書そのまま理解することは必要ですが、本当にすべて何も問題なく、葛藤を恐れもなく、神が人を死者の中から生き返らせることもおできになると完全に信じていたでしょうか。いろいろな状況があったと思います。信仰というのは、すべて含んでのことです。完全で、完璧で、何事があっても揺るがないのが信仰ではないのです。葛藤も含まれます。疑いや疑念もあるかもしれません。それでも、神様の御手の中におかれて生かされています。そのままであゆむことです。ただ諦めないで、後ろ向きにならないで、どんな思いを抱えていても、神様の御手に今日も明日もおかれていることを忘れないことです。アブラハムは、その中で、神様の備えを経験しました。慈しみの御手があることを体験しました。そして、信仰はそのように書き換えられたのです。人生が神様の御手に守られることを経験したときに、信仰が輝くようになったのです。


 そしてもう一つは、これは一つの型でした。イエスさまのことを現しているのです。独り子をささげたのは、神様でした。わたしたちのためにキリストを十字架につけたのです。そして、そのことによって豊かな信仰が天から与えられました。試練に勝利した人が信仰深いのではありません。イエスさまに贖われ救われるのです。
 このヘブライ人への手紙11章19節後半に「それで彼は、イサクを返してもらいましたが、それは死者の中から返してもらったのも同然です」と記されています。ここには、非常に大切な意味が含まれています。他の聖書の訳を見てみますと、「それで彼は、死者の中からイサクを取り戻したのです。これは型です」とあります。捧げたイサクが死者の中から復活したわけではありませんが、死と復活、イエスさまの贖いをさししめているのです。アブラハムがイサクをささげて、手にしたものは、命でありました。キリストの命、永遠の贖い、この試練を経験したアブラハムが味わった祝福の出来事がイエスさまの十字架の出来事によって、わたしたちの上にも救いが実現したのです。


 試練の中に生きることは大変なことです。その歩みの上に、わたしたちが行き着くところ、結局経験することは、神様が私たちを贖い救い出し、すべてのものは備えられたと告白することのできる信仰の喜びなのです。私たちもモリヤの山に登ることがあります。心配を抱えながらそれでも、もう引き返すわけにはいきません。神様の御手にあることだと信じて、足を進めます。わたしたちはみます、キリストの真実に出会います。アブラハムは礼拝しました。創世記22章14節「アブラハムはその場所をヤーウエ・イルエ(主は備えてくださる)と名付けた。そこで、人々は今日でも「主の山に備えあり(イルエラ)と言っている」と書かれています。神様は、この約束を私たちにしてくださっているのです。最後には、主の山には備えがあったと、祈ることができるのです。山ですから、その歩みには負荷がかかります。そう簡単ではありません。しかし、わたしたちには、永遠の命が約束されて、信仰の祈りの中に守られて、人生を歩み、主の山の備えを経験するのです。


 20節からをお読みいたします。
『信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました。信仰におって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たち一人一人のために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝しました。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。』
 信仰の父と呼ばれた次の世代がイサクです。家族の問題に苦しんだ人です。アブラハムもそのような問題、課題に生きて人ですが、どちらかというと、自分自身と神様との関係に葛藤しました。イサクは、ヤコブとエサウという二人の息子の仲違いによって、引き裂かれた思いになりました。騙し合いが家族の大きな問題となりました。のちに、ヤコブとエサウのために祝福を祈ります。Iイサクは、将来のことを思ったときに、初めは長男のエサウを祝福しようと考えていました。しかし、結局、聖書は、この世のあり方を超えて、神様はヤコブに祝福の導きをしました。旧約聖書を読みますと、複雑で、ヤコブやエサウの気持ちなどを考えますと、よりよく聖書を理解することができないときがありますが、神様の祝福の導きはこの世が考える方法とは違っていたのです。思いを超えたもの、神様は、祝福に値しないものにも、豊かな恵みを備えようとしてくださることを示してくださっていると思います。そして、その家族の意味、問題によって、イサクは苦労する人生がありました。しかし、信仰の導きの中に生きたのです。そして、最後は、ヤコブとエサウを祝福します。信仰者の歩みは、祝福することしか残されていないのだと思わされるのです。苦しみも、またどう人生を理解したらよいかと戸惑うこともあったと思いますが、わたしたちには、最後に、もっと素晴らしい使命が残されています。祝福を祈ることです。かつて、アブラハムに祝福の源となるようにと語られました。そして、その祝福の祈りは引き継がれました。いまや、イサク、ヤコブ、ヨセフとその祝福が受け継がれて行きます。その祝福とはいったいどのような意味があるのでしょうか。日本語で祝福というと、良いこと、楽しいことをイメージします。しかし、聖書でいう祝福は、神様に依り頼む人生に歩むことを意味しているのです。神様に依り頼む人生を与えてくださるのです。そこには、その人生の背後には、恐れ、苦悩、悲しみを担うことがあるかもしれません。しかし、恐れないでください。諦めないでください。神様を見つめて祈るその人生を虚しいものと思わないでください。わたしたちは、信仰を育まれています。神様の恵みの御手に守られています。小さなもの、貧しいものを決して暗闇の閉じ込めたままではおかれないのです。神様をほめたたえ、歩いていく祝福の人生なのです。ヨセフは、その人生の最後、家族一人ひとりのために祈りました。そして、杖によりかかって神様を礼拝したのです。その礼拝から離れることができなかったのです。ひたすら、どんな苦悩の中にあっても、神様に依り頼む、その祝福をいただいたのです。
 この祝福の中をともに歩いていきたいと思います。