読む礼拝メッセージ

2019年12月8日主日礼拝   

ルカによる福音書1章46―55節
「天の恵みがあなたに」


 第二アドベントの礼拝になります。二つ目のろうそくに火がともりました。クリスマスを心より待ち望む時にできたらと思います。先日、この海老名シオンの丘教会で、カンバーランドの牧師会のクリスマスが行われました。牧師先生ご夫妻が集まり、子供たちなども合わせると約30名にもなり、一緒にクリスマスのお祝いの時をもちました。その中で、毎年、プレゼント交換をします。牧師たちで1000円ぐらいのプレゼントを用意して、くじを引いて、それぞれ交換をします。どのようなプレンゼントが一番多いと思いますか?毎年そうなのですが、この寒い季節、スリッパをプレゼントする先生が多いです。牧師たちですから、そのプレゼントにもコンセプトがあります。スリッパというのは、一つは、福音を伝える足ですね。イザヤ書52章7節に「いかに美しいことか、山々を巡り、良い知らせを伝える者の足は。」という聖書箇所があります。このクリスマスによき知らせを伝える時であるようにとの祈りが込められています。もう一つは、スリッパというと、人の足を包むものです。それはイエスさまが十字架にかかるまえに、お弟子さんたちの足を洗ったことにも関連があります。足は、決してきれいなものではありません。それを包み込むようにイエスさまは洗い愛を示されました。このクリスマス、わたしたちは、すべてを包み込んでくださるイエスさまの愛に触れます。小さくても、弱くても、心の汚れ、憎しみ、痛み、それぞれの思いを抱えていても、神様の真実の愛の中で、癒され、育まれ、新しい命の喜びをいただくときです。そして、わたしたちは、スリッパのようになる現実、だれかのために労苦し、仕え、痛みをともに担わなければならないこともあるかもしれません。社会の痛み、家族の傷、隣人の様々な振る舞い、感情を受けとめることがあると思います。スリッパのようにただそこにいるかもしれません。しかし、その一人ひとりが、イザヤ書にありますように、福音を伝える喜びの器と変えられたらどうでしょうか。暗闇に希望の光が灯るように、小さな光であっても、その周り全体に祝福と喜びをもたらす存在になるのです。ご一緒に今日も聖書のみ言葉から恵みをいただきたいと思います。


ルカによる福音書1章46節からをお読みいたします。
『そこで、マリアは言った。わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、』
 教会では、毎年のクリスマスでもそうですが、賛美歌をよく歌います。歌をうたうことが好きな方もたくさんいると思います。わたしは、ある時、テレビで歌番組を見ていました。教会や賛美歌とは全く違う内容ですが、いろいろな歌を聞くのが好きなのです。そのテレビ番組では、点数をつけて競わせます。ある一定のレベルになると本当にみんな上手です。当たり前のことですが、ただきているだけでは、甲乙つけがたいといいましょうか、それぞれの歌声も歌唱力も素晴らしいのです。それでも、確かに要因はわかりませんが、本当に心響く歌とそれほどでもない歌があります。上手に歌っているのはみな同じなのですが、その中で、感動がこみ上げてくるといいましょうか、聞いていても心が動かされる歌声があるのです。心が動かされるのです。なぜだろうとわかりません。その歌っている人の心に関係しているのだと思います。その人の深い経験、人間性にも関係していると思います。表面的な捉え方ではありません。ここで、マリアは、「わたしの魂」「わたしの霊」という表現を使います。それは、奥深い心、魂、この現実的な表面的な事柄ではなく、何か神様がその心に希望の種、喜びの種を植え付けるような経験、目に見えるところでは困難に思えても、非常に深い霊的な体験によって、喜んでいる姿がここにいるマリアの姿です。マリアは「主をあがめ」と賛美をしているのです。この言葉は、「大きくする」という意味があります。マリアの深い心の中で、神様の存在が大きくなっているのです。わたしたちは、心で生きるものです。外のことは変えたいと思っても変わらないことがあります。でも、自分の心は変えることができるのです。厳密に言えば、心は変えられ、守ることができ、そして、いくらでも神様のみ言葉を満たすことができるのです。マリアは、魂に触れる神様を体験していました。聖霊に満たしてくださる神様の御心を知っていました。それは、聞く人に恵みを与え、人を造り上げ、本当に大切なところに自分を立たせてくれるのです。魂に神様の愛が宿り、聖霊に満たされる時に、どのように変化していくのでしょうか。


一つは、自分の小ささや弱さを通しても神様を賛美するのです。この世では、人の評価や、社会の基準が、自分の価値を決めます。それはある時、神様が一人一人を美しく、素晴らしい存在として創造された真実を忘れさせてしまうのです。自分には価値がないと思ってしまうことがあるのです。そして、弱さも貧しさも、不幸なこととして思ってしまうのです。しかし、もし自分の小ささやいろいろな前向きに受け止めることができないことを、喜びの原動力とできたらどうでしょうか。人生が変えられると思います。神様は、わたしたちの心に触れてくださいます。表面的にみ言葉を語りかけ、たんに心地よい、気分が一時的によくなるということで、信仰があるのではりません。マリアは、「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」身分の低さ、それは、この社会では不幸や悲しみの極みの人生でした。運命というものに支配されて、一生その人生を変革されることはできなかったでしょう。その人生のあり方を変えたのが、イエスさまです。マリアのうちには、イエスさまがいました。マリアは、「わたしを幸いな者というでしょう」とあります。運命は変えられました。不幸から解放され、神様にある喜びがマリアの人生となったのです。


二つ目の変化はなんでしょうか。
49節からをお読みいたします。
『力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕に力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。』
 なぜ、マリアは心からの賛美をささげるように導かれたでしょうか。それは、わたしたちの信じる信仰と関係しています。信仰は見えないものを信じるので、ある人たちからは誤解されます。宗教というのはまやかしのようなものがあって、見えないものを頼りにして生きることは、現実的ではないのではと思われます。しかし、本当はそうではないのです。ある秘密といいましょうか、秘訣といいましょうか、ここで記されている非常に大切なことがあるのです。マリアは、急に何かある一つの出来事について語るのです。それはマリアが抱えていた問題に関係しています。人間は、だれもが心に葛藤や痛みや課題を持つことがあります。それは、決して簡単なことではなくて、自分の力だけを見ると、どうしてよいのか分からないような現実です。そこで、マリアは、心のうちにイエスさまを宿しました。そして、マリアの人生の中に驚くべきことでありますが、神様の御心が語られるようになったのです。イエスさまを宿したということは、その心に御心が宿るようになったのです。クリスチャンになるということは、人間が変わるということではありません。良い行いをしなければいけないということでもありません。わたしに語られる神様の御言葉の体験をするようになるのです。マリアは、この御言葉の体験をしたのだと思います。それが49節にある「力ある方がわたしに偉大なことをなさいました」という体験なのです。もうこれは、すでに過去形でかかれているのです。これから良いことが起きるとか、見えないことを信じるとか、そのようなことではありません。ある確信が心にあるのです。力ある方を経験したのです。だからこそこのマリアの賛歌は、預言的なのです。預言者が語ることばのようなのです。一人の女性です。もともと預言者ではありません。旧約聖書の専門家ではありません。しかし、彼女の心の中に神様の御心が動いているのです。この事実が、イエスさまがお生まれになる大切な意味です。新約聖書は、新しい契約です。新しい契約とは、すでに旧約聖書の中で預言されています。


エレミヤ書31章33節「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、わたしの律法を彼らの胸に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのとき、人々は隣人同士、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。」
 これは、新しい時代の預言でした。そして、今、マリアの上にこの預言の言葉が実現しているのです。ひとりの女性が、その心のうちにイエスさまの恵みを宿すことを通して、その内側に御言葉が満ち溢れているのです。そして、マリアが預言の言葉を口ずさんでいるのです。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、・・」そんなことをマリアがもともと思っていたわけではありません。神様がその心に示してくださるのです。イエスさまを信じるというのは、そのような意味があります。預言の言葉に生きるものにされるのです。それは、何か偉そうに言葉を伝えることでもありません。自分自身が単に高められるということでもありません。むしろ、謙遜にならざるを得ないのです。言葉を語らずとも、仕えるものとされるのです。それは、イエスさまの心がわたしの人生とされるからです。御言葉の恵みが生きて働く人生が花開くのです。もし、自分だけの人生を考えても、ここで登場するマリアは、ヨセフと婚約していましたから、それなりの幸せが約束された人生を歩むはずでした。わたしたちもそのような人生の営み、もちろん、人間的に願いが叶わなかったり、そんな幸せが約束されるような人生を歩いてこなかったという人もいるかもしれません。それでも、ここで言いたいことは、この世の運命と呼ばれるものの支配の中で、わたしたちは人生を計らなくていいということです。何かの基準に照らし合わせて、良いとか悪いとか、幸せとか不幸とか、富んでいるとか貧しいとか、そのような基準がすべてなのではありません。マリアは、もしかすると、この神様の御言葉の介入があって、人生がかき乱されてしまったようです。この世の幸せと運命というレールから外れました。人間の知恵で考えるならば、この先の道が見えないような中に置かれてしまいました。涙があったかもしれません。ヨセフもマリアももう道はないと感じたかもしれません。しかし、マリアは、何か偉大な力が自分の中で動いていることを知りました。力ある方が偉大なことをしてくださることを、その身で経験しているのです。小さき貧しき、この女性の中に聖霊が動いているのです。


54節と55節をお読みいたします。
『その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません。わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。』
 これはマリアの賛歌で、マリアの言葉なのですが、驚くべき内容です。ここでの「憐れみ」という言葉は、天に恵みのすべてという意味があります。キリスト教会の歴史の中では、祈りというと「キリエ、エレイソン」「主よ、あわれみたまえ」という言葉が、わたしたちの願いのすべて、天の祝福を受けることのすべてのことが含まれている言葉であると言われてきました。ここで、マリアが神様の憐れみを求めて祈るのです。そして、確信するのです。神様は、憐れみをお忘れになりません、と語るのです。そしてこれはイスラエルの預言となるのです。一つのことを思いました。マリアは自分の人生に感心をもったではありません。これから自分の健康、富、ヨセフとの結婚生活が守られるように願ってのでもありません。わたしは、自分自身のこととして、あまりに自分の小さな人生にこだわりをもち、そして、自分の人生をその手にしっかりと握りしめて、思い通りになるとかならないとか、傷ついたとか癒されたいとか、そのようなある意味で、その自分の人生を生きているのです。これも決して間違ったことではありません。神さまに与えられたひとりひとりの大切な人生です。でも、それに固執して、そこから離れない限り、本当の平安はありません。マリアは、自分の人生もあったと思います。しかし、ここでイスラエルの憐れみを求めているのです。イエスさまにある世界観が、マリアの人生となっているのです。大げさなことをお話しするつもりはありませんが、神様は、もっと大きく、豊かにわたしたちの人生をすべてご存知で、祝福し、救おうとされているのかもしれません。計り知ることのできないほどの人生の計画の中で、わたしたちの人生のあり方を見つめていてくださっているのです。
 このアドベントの時、イエスさまの御心がわたしたちのうちに生きて働き、むしろ、その聖書の言葉がわたしの人生となることを祈り求めていきましょう。