読む礼拝メッセージ

2019年6月9日主日礼拝     ヨハネによる福音書2章1−11節

「水はぶどう酒に」

 海老名シオンの丘教会25周年の特別月間を過ごしています。先週は生島先生がメッセージしてくださりとても恵みが溢れる時でした。今日は、ペンテコステ礼拝でもあります。イエスさまのお弟子さんたちは、イエスさまの復活の後、50日間、聖霊を待ち望んでいました。そして、このペンテコステの時に、聖霊が注がれて、教会が誕生しました。教会は、神様に招かれたひとりひとりが集められています。エクレシアというギリシャ語の言葉は、「ある目的をもって召し出された」という意味があります。人の集まりが教会であって、わたしたちは、一人一人神様によって呼び集められました。しかし、ただの集合体ではありません。そこで、何かを経験する者たちなのです。それが聖霊です。これは、見えませんし、ここにあるとか、あそこにあるとか、そのように見ることができません。でも、ここに、人間の思いを超えた何かがあるのです。不思議です。見えないのですが、感じているのです。確信しているのです。ここに神様がおられると深く、また強く感じるのです。わたしは、今日偉大な力に守られているような平安があります。試練があります。困難も見えます。祈りの課題を抱えて、毎日祈っていますが、現実はより複雑です。それでも、この教会には、神様の命があります。わたしたちを生かしている神様がおられます。だから信じましょうと言っても、なかなか伝わらないこともあると思います。それでも、今日、ここにいるひとりひとりがわたしたちを生かしている力、どんな場所にいても、何も経験していても、神様の力強い御言葉がわたしを生かし、わたしを励まし、倒れても起き上がる力があることを経験したいのです。

 この25周年の時には、証し集を発行しようと思いましたが、諸事情によって幻になってしまいました。折角、ひとりひとりが書いてくださったので本当に申し訳ないです。その証集のタイトルが「水はぶどう酒に」というものです。証し集は発行できませんでしたが、ひとりひとりに働く神様の御業を思う時に、このヨハネによる福音書2章のカナの婚礼の場面を思い起こしたのです。ここには、神様の祝福の出来事があります。ご一緒にみていきましょう。

ヨハネによる福音書2章1節からをお読みいたします。

『三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

 今年のペンテコステ礼拝は、このヨハネ2章1節からの「カナの婚礼」を選びました。特に25周年の時にペンテコステ礼拝の時がありますので、特別な思いがあります。このお話は、ガリラヤのカナという場所で結婚式があり、イエスさまもお弟子さんたちも招かれていました。そして、ぶどう酒がなくなってしまいます。祝いの席にぶどう酒がなくなってしまうことは、その結婚式を台無しにしてしまうようなことでした。イエスさまは、ここで、奇跡を行い、水をぶどう酒に変えられたのです。

 このお話は、聖書独特の読み方があります。それは、この物語、お話に込められた意味があります。イエスさまは、ここで何かを示されたのです。そこは祝いの席でした。神の国の麗しさ、喜び、祝福を見つめるように、そこにわたしたちは神の子として招かれていることを示してくださっているのです。わたしたちの人生には憂いがあるかもしれません。難しい問題の中に生きることもあります。それでも、結婚式の喜びの中に招かれるように、神様はこのような祝福に生きる道を示してくださっているのです。天にある喜びを見つめるようにして生きるのが信仰の道です。

 しかし、それと同時に、ぶどう酒がなくなってしまうような出来事をわたしたちも経験するのです。喜びが尽きてしまう、その味わい深さが枯渇してしまうようなことがあるのです。イエスさまは、それを十字架として示されたのです。マリアがイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」といいます。切実な願いです。祈りです。イエスさまであれば、何かをしてくれるだろうと、助けてくれるだろうと思いました。当時の結婚式は1週間ほど続きました。ぶどう酒がなくなることもあったでしょう。準備不足、だれかがきちんと用意していなかった、原因を探そうとすれば、その家の誰かが準備を怠ったのでしょうか。マリアは、その責任者だったでしょうか。わたしたちは、何か不幸なこと、大変なこと、自分の失敗、準備不足、原因を探すことに時間を使います。もちろん、原因をはっきりさせて、今度はそのようなことが起きないようにすることも必要です。しかし、それを乗り越えて、突き抜けて、大切な真実が聖書にはあるのです。イエスさまは、「婦人よ、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と答えました。とても違和感をおぼえると思います。お母さまの願いです。そんなに冷たく対応することがあるでしょうか。実は、わたしたちもそのような信仰の葛藤、突き放されるようなこと、神様の愛を感じることのできないようなことを経験することがあるかもしれません。それは、わたしが見ている視点、イエスさまが見ている視点が違うからです。わたしが見ている視点は、この結婚式という祝いの時に、ぶどう酒がなくなってしまった、というだけです。これがない、あれがない、何かに比べて、この状況の中で、足りないこと、困ったこと、それだけが心を支配してしまうのです。これが悩みの原因です。しかし、イエスさまは、「わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」と言われます。イエスさまは、十字架と復活の時、そして聖霊が注がれる、その時を見つめていたのです。それは、冷たい反応ではありません。もっと大きな出来事、その小さなことによっては思い煩わない生き方、十字架による罪の赦しと復活、そして偉大な神様の業がすべてを守り導いて、救いを与えてくださる「時」があるのです。マリアは、その時を知っている人です。このカナでの婚礼の出来事は、一つの場所、地域、そこで、良いことが起きたという現実主義的なことを超えて、もっと偉大な神様の時の中に生かされていることを示そうとしているのです。イエスさまが小さなことに関わってくださらない、といことではありません。大きな神様の出来事の中に生かされていることを知る時に、小さなことで思い煩わず、些細なことで惑わされず、生きる道があることを示しているのです。わたしたちも、「わたしとどんな関わりがあるのです」と言えるのです。わたしたちは、その悩みの原因を心にいれて、人生を暗くしないでいいのです。「わたしとどんな関わりがあるでしょうか」というのです。それは真理を暗くさせるものではありません。それによって、すべてが暗闇に閉ざされることではありません。わたしと思いを超えた神様の時があるのです。その尽きることのない喜びの出来事をわたしたちに与えることができるお方なのです。ぶどう酒がないことは、たしかにその時の現実は一番大きな問題です。それは解決できない深刻な状況です。しかし、イエスさまを見つめる時に、わたしの信仰の生涯にはなんの影響も与えないのです。なぜなら、イエスさまは、もっと偉大な救いの業、その現実の小さな悩みを超えて、神の国の豊かな喜びの中に贖いと聖霊の満たしの中に置いてくださるのです。では、現実は何も変わらないのでしょうか。この神の国を求める時に、すべてを備え、与えて、祈りを聞いてくださるイエスさまを見るのです。

5節からをお読みいたします。

『しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。』

 マリアは、このイエスさまの言葉にはっとさせられたのだと思います。詳しい事情はここに記されていませんがマリアはこの結婚式の中で重要な役割、取り仕切ることがあったと思います。ぶどう酒がないという一大事の中で、「そうだ、自分で思い煩い、その心配を積み重ねることではではなくて、イエスさまの言葉に聞くことだ」と思いを変えたのだと思います。マリアが召し使いたちに「何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と伝えました。これは、簡単な言葉のように思いますが、なかなかできないことかもしれません。自分の思いを拒絶されるような経験、自分の思いや願いをすぐには聞いてくれないイエスさまがいました。この困った状況の中で、普通であれば「わたしの願いを聞いてくれなかった」と思うようなことです。信仰の道は、この葛藤を経験します。しかし、わたしたちが行き着く思いは、イエスさまが言われることをそのとおりにすることなのです。そして、ここで主人公になるのが召し使いと呼ばれる人たちです。この人たちが、イエスさまの言われることをそのまま行うことによって、素晴らしい神様の奇跡を見ることになります。聖書は、とても複雑な面があります。そして、神様の導きというのは、わたしたちの知恵から考えると、本当に理解できないようなことがあるのです。わたしたちがイエスさまの言葉に聞くということは自分の考えから離れなくてはいけません。何かを判断することでもありません。これは意味があるのか、意味がないのか、自分の経験で判断することもでもありません。わたしたちは、自分の思考がいつも優先して、物事に対処することがありますが、イエスさまに従う道は、無になる訓練です。自分自身の何かの充実、栄誉、名声のためではありません。この召し使いをイエスさまは必要としているのです。召し使いは何をしたのでしょうか。一つのことだけです。イエスさまの言われることをそのまましたのです。「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われました。そこに何の意味があるというのでしょうか。ぶどう酒を入れるならばわかります。水を入れても、何の解決にもならないでしょう。しかし、その言葉に従ったのです。そしてこの水をくんだ召し使いたちは知ったのです。わたしは、水がぶどう酒になる、この奇跡の意味がわからない時がありました。手品のようなそのような奇跡をどのように信じることができるかと思うようなこともあります。でも、この召し使いは知っていました。わたしも知りたいと思いました。世話役を分かりませんでした。花婿も知りませんでした。ただ、この召し使いが水を注いだ時に、そのあとに神様が働いてくださるその業を見るようになるのです。この業を見るのです。わたしは、確かに水という物質がぶどう酒に変わったということは説明が難しいです。しかし、この教会の霊的な歩みの中で、確かに神様が生きて働き何かを変えてくださることがあるのです。み言葉を伝えます。できるかぎりで、示されることがあれば大切に仕えていきたいと思っています。そして、そのことに大きな意味があるとは思えないことがあります。しかし、それでも仕えていきます。この人に水を、この人に寄りそう愛を、自分の思いではなくて、イエスさまの思いを心に置く時に、本当に素晴らしい結果が見えることがあるのです。味わい深いぶどう酒の奇跡を見せられるのです。良いぶどう酒が残されているのです。

 今日は、ペンテコステ礼拝です。イエスさまが十字架につけられて死んで三日目によみがえりました。そして、そのそばにいたお弟子さんたちは、ルカによる福音書24章48節で「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都に留まっていなさい」と語られます。ここでもイエスさまの言葉があります。それは、留まることでした。そして、父が約束されたものをあなたがたに送る、と言われました。言葉があって、約束があって、結果がありました。この水がぶどう酒に変わる時にも、イエスさまの言葉があって、そしてそれを待ち望みつつ生きた人たちがいて、素晴らしい神様の業を経験しました。わたしは、いつでも、神様の御業だけを求めてしまうことがあります。良い結果が欲しいのです。良いぶどう酒を求めています。その前に留まって神さまの約束の言葉を聞くことが必要です。何も起きていない時に、空しいと思う業であっても、それを行う人が必要です。一杯の水を誰かに差し出すことが必要です。その時に私たちは見るのです。神様が働いてくださってと、神様が守ってくださったと、わたしの虚しい人生も、神様の御業の中で、味わい深い、神様の恵みを経験する人生とされたのです。

 神様は、これから海老名シオンの丘教会にも味わい深いぶどう酒のような出来事を見せてくださるのです。