読む礼拝メッセージ

       2020年2月9日主日礼拝      

マルコによる福音書1章9−15節
「天からの声が届く」


 昨日は、長老研修会の時をもちました。その中で、朝岡勝先生が著書「教会に生きる喜び」という本を用いて、教会の大切な使命を学びました。その中で、「旅する教会、荒野の集会」というタイトルの項目があります。このように記されています。『「教会」(エクレーシア)の原型は旧約において、荒れ野を旅したモーセと神の民イスラエルの「集会」(カーハール)にありました。出エジプト記や民数記が記すように、昼は雲の柱、夜は火の柱によって示された主なる神の臨在に導かれて、彼らは旅を続けていきました。聖書には旅人たちの姿が溢れています。行き先を知らずに生まれ故郷から旅立ったアブラハム、サウル王から逃れて転々と旅を続けたダビデ、遠くバビロンの地へと捕らえ移されていった捕囚の民、主イエスと共に三年余りの日々を旅し続けた12人・・』そのように記されています。神さまは、私たちの人生を、ただ単なるその自分の人生から、神さまのご計画という壮大で、豊かな人生の旅路に変えてくださいました。一人のわたしの人生だけであれば、自分の周りのことだけに関心をもちます。そして、もっともっと自分自身に集中していきます。自由なようで不自由です。なんでも好きに生きると言っても、自分の弱さや力によって多くの部分が制限されます。しかし、もし、この小さなわたしの人生を見つめるお方がいて、もっと壮大で、豊かで、神様の信じるという信仰の旅路に歩むことができたら、人生の生きる目的、そして尊い神様の愛を経験できる喜び、何倍にも祝福が広げられる人生を生きることができるのだと思いました。教会は、建物でも仕組みでもありません。その神さまによって導かれている旅人の集まりです。一緒に旅をしています。もちろん、簡単なことばかりではありません。いろいろな道に歩まされることもあります。それでも、大きな守りをもって、わたしたちの人生をよりよく、最善に導いてくださるお方がいるのです。その旅人の人生がどれほど豊かであるかを示しているのが、今日の聖書箇所でもあります。ともに、御言葉から恵みを受けたいと思います。


マルコによる福音書1章9節からをお読みいたします。
『その頃、イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。そしてすぐ、水から上がっているとき、天が避けて、霊が鳩のようにご自分の中へ降って来るのをご覧になった。すると、「あなたは私の愛する子、私の心に叶う者」と言う声が、天から聞こえた。』
 イエスさまの生涯の中での大切な出来事がここに記されています。わたしたちのそれぞれの人生を振り返っても、大切な出来事、節目となるような時を経験することがあったでしょう。一番、心に残ること、忘れがたい経験は、神さまに出会うような時です。神さまは目には見えないお方であるでしょう。しかし、ある私たちは霊的な体験に導かれることがあるのです。その霊的体験というのは、奇妙なことではありません。単なる気休めということでも、空想の世界でもありません。たしかに、この身に宿る、神さまの力と知恵の体験をさせられるのです。それがどんなに人生を豊かにするでしょうか。どんなに人生を感動に溢れされるでしょうか。そのことの意味を、イエスさまの洗礼の場面のところから見ていきたいと思います。


 聖書には、よく地名が出て来ます。その地名は、現在をその地名で呼ばれていることもありますが、そこには一つひとつ意味が込められていることがあります。たとえば、何気なく読んでいますが、イエスさまは、「ガリラヤのナザレから」から来て、ヨルダン川で洗礼を受けました。ガリラヤのナザレという地名は、ヨハネに福音書のところで、後にイエスさまのお弟子さんとなるナタナエルという人がこう言いました。「ナザレから何の良いものが出ようか」ヨハネ1章46節です。ひどい言葉です。それほど、偏見に満ちていた場所、そこから洗礼に導かれるのです。ここには、洗礼の深い意味が込められているように思います。何のよいものが出ようか、そこにこそ、イエスさまの救いの恵が満ち溢れるようになるのです。小さくても大丈夫なのです。何の良いものがでようか、と思われる中で、絶大な神様の愛に取り囲まれて、その人生が変えられていくのです。そのことを思うと、期待に胸が踊ります。そのままで愛されることをしるならば、わたしたちの人生には、ものすごく大きな可能性が秘められることになります。小さいものが恵み豊かなものに変えられる、弱さをかけるものが神さまの力強さに守られて人生を大胆に生きるようになる、ことを見ることほど、嬉しいことはありません。


 洗礼は、浸されるとか、満たされる、という意味があります。イエスさまがヨハネからヨルダン川で洗礼を受けときに、天が避けて、霊が鳩のようにご自分の中に降ってくる、その体験をされました。なにか、ここだけ読みますと、神秘的な情景を思い浮かべますが、いったいどのような意味がここにはあるのだろうかと思います。しかし、これは現実的なこととして、今、私たちの教会の上にも降り注ぐ神さまの恵みなのです。洗礼を受けるということは、本当に大きな神さまの恵みです。わたしは、16歳で洗礼を受けましたが、その時に、どのような劇的な体験したわけではありません。天が避けて、鳩が降るなんて現象が起きたら大変です。ニュースになるかもしれません。しかし、そのような現象はありませんでしたが、今思うのです。確かに、天が避けたのだと。わたしは時間がかかりましたが、それ以来本当に不思議な経験をたくさんさせられました。今もそうなのです。一瞬一瞬そのような天が避ける経験をするわけではありません。でもある時、突然、ここで言えば、霊が鳩のようにでしょうか、平安が宿り、信仰が宿り、弱いものが、神様の力強さに満たされて立っているのです。そのままで満たされます。強められます。そのしるしは、神さまの愛が深く、豊かに宿るということです。「あなたは私の愛する子、私の心に叶うもの」と声が聞こえたのです。これが、神さまの愛の言葉です。実は、わたしたちは、本当に豊かに、自分自身が立っていくことのできるその根拠は、愛なのです。愛する子と呼ばれ続けることなのです。そうすると、確かな生きる自信が、心に宿るようになります。私という存在の根っこには、この愛がないと、心根が腐ってしまうように、生きにくさ、人間関係の不振、人生の喜びが見失われてしまうことがあるのです。ここから出発します。毎日、神さまの御言葉から出発します。イエスさまもそうでしたから、この恵みの体験をしないままで、生きていくことは本当に大変なことなのです。御言葉に満たされる生涯というのがあります。神さまの愛を宿して生きる道があります。神さまの愛に満たされる人生というのがわたしたちの人生を前に動かすと力となるのです。


1章12節からをお読みいたします。
『それからすぐに、霊はイエスを荒れ野に追いやった。イエスは四十日間荒れ野にいて、サタンの試みを受け、また、野獣と共におられた。そして、天使たちがイエスに仕えていた。』
 天からの声が聞こえて「すぐ」荒れ野に導かれるのです。もっと、天の栄光を味わっていたかったかもしれません。御言葉豊かに響き渡る世界にだけ居たかったかもしれません。しかし、それは、偶然荒れ野に行ってしまったとか、思いがけず、何かの仕打ちのようにして、荒れ野に導かれたわけではありません。40日というのは、聖書的な意味があります。モーセは、シナイ山で律法を授かる時に、40日山にいました。エリヤは心身ともに疲れ果ててしまう時に、40日たって神さまに出会いました。その他にもありますが、40という数字は、神さまの時を経験する期間なのです。でも場所は、荒れ野という、そこに何も良いものがないと思えるところです。マルコによる福音書には、その40日間に何が起きたのか、イエスさまはどのようなことを経験されたのか、詳細は記されていません。荒れ野でどのように神様を経験され、サタンの試みに勝利されたのでしょうか。マタイによる福音書やルカによる福音書には、そのことの詳細が記されています。しかし、あえてここに書かれていないことには意味があると思います。試練もあるますし、サタンの試みもあるのです。どのような意味があって、どう対処するかということも大切ですが、どう生きるかということに焦点があてられているのでしょう。


 イエスさまの生涯のように私たちの人生も祝福され、守られます。洗礼の恵みが注がれているからです。この事実が私たちの人生を希望へと導くものなのです。内側に、この聖霊の泉が満ちていないと、試練に耐えられません。このうち側に、何かが動き始めるのです。それは、御言葉の豊かな体験です。この内側に注がれているのです。その事実だけでもしかしたら十分なのかもしれません。もちろん、私たちは困難を乗り越える知恵が必要ですし、試みに対する対処法も本来は考えなければいけないのでしょう。もちろん、わたしたちもそのように生きる知恵によって、今までも、今も、そしてこれからも生きることになります。しかし、ある時は、本当に解決法を見出せなかったり、行き詰ったり、恐れたり、このサタンの試みに太刀打ちできないことがあるのです。他の福音書を見ると、イエスさまは、3つの試みにあったことがわかります。空腹を覚えていた時に、サタンは近づき、「石がパンになるように命じたらどうか」と言うのです。一番の弱みにつけ込む言葉です。イエスさまは御言葉を語りました。「人はパンだけで生きるのではなく、神の言葉によって生きる」と言われたのです。サタンは、イエスさまを高いところに連れていき、「飛び降りろ」と言われるのです。天使が助けるだろうと、そそのかすのです。イエスさまは、また御言葉をただ語ります。「神を試みてはならない」と。イエスさまは、サタンの思いを心に入れることをせず、御言葉で心を守るのです。最後です。もしかしたら、人の最も弱い部分であるかもしれませんが、この世の富を見せつけ、きらびやかな世界を見下ろす場所に連れていき、サタン「もし、わたしを拝むなら、すべては与えよう」と言われるのです。イエスさまは、目を閉じ、ただ御言葉を語ります。「主だけに仕えなさい」天から声が聞こえたという洗礼の恵み、それはずっと続いていくことになるのです。あの時は天が避けて、良い時であったけれど、今は試練の真っ只中で、恵みはありません、と言わなくていいのです。荒れ野でも、試みの中でも、御言葉は変わらず、いつでも、わたしたちの心を満たし、心を守り、人生を神様がご計画したその中を歩いていくことができるのです。それは、大きな恵みです。実は、試みの中でこそ、御言葉の恵みが心に響いてくるのです。毎日、反すうするようにして、御言葉を繰り返し、味わい、その心に御言葉をあたため、委ね、信じていきていくことが、神様に与えられている尊い人生なのです。


 14節からをお読みいたします。
『ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい」と言われた。』
 このマルコによる福音書は、一つの特徴があるようです。先ほどのイエスさまの40日の荒れ野の期間に何が起きたのかは記しませんでした。ここでも、「ヨハネが捕らえられた後」とありますように、とてもその事実は、とても大切なことのように思うのです。しかし、あまりに簡潔にといいましょうか、いやほとんど何も説明されていません。ある意図があってのことだと思います。
 私たちは、たくさんの事柄を経験するものです。今日は、日曜日でこのように礼拝をしていますと、神様の御言葉に聞き、ここに聖霊の恵みがあり、わたしたちは、恐れていてもなお、何か心に平和をいただきながら過ごすことがあります。しかし、ここから出ると、それぞれの生活があり、それぞれの課題ややるべきことや、多くの問題も生じることがあるかもしれません。信仰のともしびが吹き消されるようなこともあるかもしれませんし、御言葉がすぐに心の外に放り出されるように、悩みが心の中心にまた置かれてしまうのです。洗礼者ヨハネが捕らえられたこと、もちろん、これは重大なことですし、なんとかしければいけない問題だと思います。しかし、それは問題に向き合わないとか、愛がないとか、そのようなことではありません。イエスさまの生きる道をわたしたちも歩むのです。問題があります。課題があります。御言葉の価値を見失わせるようなことがあるのです。しかし、「時は満ち、神の国は近づいているのです」神様の大きな支配の中に、すべてが置かれているのです。問題がありますし、心の痛みがあります。それでもなお、わたしたちがそこのことにだけひきずられて、問題を問題として、課題を課題として、悩み続けることはないのです。神の国の支配の中に生かされています。今日、必要な導きを神様は御言葉を通して示してくださることです。まだ解決されない問題も抱えます。しかし、イエスさまに従い続けます。そして、なすべきことに忠実に取り組みます。その時、わたしたちは、聖霊の風に導かれるようにして、御言葉の恵みが私たちの人生に豊かな実を結ばせることになるのです。
 福音を信じましょう。その道に歩みましょう。神様の御言葉が行きて働くことを祈り求めましょう。お祈りをいたします。